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ウィスコンシンの思い出 10

30年前のこの日は、間違い無く土曜日だったと記憶している。ウイスコンシンでの18歳の誕生日。友人達と、ダンス会場に居た。まだ、ディスコなる言葉が出始めた頃で、ロックバンドが演奏する暗いホールに、ブラックライトが点滅するような場所。すでに、いつも一緒のクラスメートが誕生日ということで、祝ってくれて、18歳を祝ってくれた。 18歳なので、大手を振って、アルコールも飲めたが・・・実は、今も下戸である。どこで仕入れたのか、友人が日本酒を持ってきて、飲め飲めとうるさくて、仕方なく、酒を飲んだ。

そんな事が、とにかく嬉しくて、家に戻って、嬉し泣きしたのを覚えている。初めての二日酔いも体験したのは、翌朝だった。

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話を戻して・・・時は1973年。
授業は、とにかく、大変だった。まず、ドイツ語。初級だったんで、他の生徒とスタートラインは同じだったが、アルファベットに生きる彼らと、どこまでも漢字の世界で育った日本人とでは、競争にならなかった。しかし、German Clubなるクラブに自動的に所属することとなり、こちらは楽しかった。

ドイツやスイスのグミやチョコを売り歩いて、ドイツ旅行の「足し」にする活動をした。授業中に、そのグミやチョコを生徒や先生に売り、食べながら授業する風景は、日本では考えられなかったし、「アメリカ」を感じた。実際、学校内には、チョコやコーラの自動販売機があり、それらを食べながら、飲みながらの授業で、非常に不思議に思ったもんだ。

このGerman Clubでは、ヘイライド、クリスマス・キャロルなどの活動もした。ヘイライドとは、Hey Ride,即ち、「干し草に乗る」ということで、トラクターに牽引された荷車の上に「干し草」を乗せて、その上に乗りこみ行進する。そして、その「干し草」を投げまくるという、あまり意味を感じないが、やってみると、かなり面白い行事だった。因みに、Hey Feverなる言葉もあって、これは「干し草でなる花粉症みたいな症状」を言うが、干し草アレルギー持ちには、ちょっと出来ない行事だ。

クリスマス・キャロルは、クリスマス直前に、Osseoの老人ホームや病院で、クリスマスソングをキャンドルを持ちながら歌った。この時に、音楽の先生も一緒だっことで、音楽の先生にスカウトされて、後期はドイツ語を諦めて、Choir(合唱)のクラスを選択することにしたのだが。中学時代に合唱部に所属したことがあって、それが認められた訳で、芸は身を助ける、となった。

他には、ミルウォーキーでフォーク・フェスティバルなる行事を見に行ったのも、このクラブの活動だった。東京や大阪を知っているから、さほど、大きな都市とも思わなかったが、同行した生徒は、ミルウォーキーの「都市」加減にビックリしていた。この時に、冬のスクールバスの乗り方を教わった。曰く、「決して、頭をサイドウインドーに触らないようにして寝るな!」 なぜなら、凍りついて、痛い思いをするからだ。

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その他の授業では、歴史では、少し辛い思いもした。まず、旧日本軍の南京大虐殺の16ミリ映画を観るということがあって、暗室となった教室で、あれほど視線を感じることもないという体験だった。別段、ボクが虐殺をした訳じゃないものの、・・・逆に「日本の代表」という自覚をもたらした一件だった。16ミリが終わり、教室が明るくなって、先生から「コメントは?」との質問に、 Not fair!と言うのが精一杯だったし、先生も理解を示してくれたりもした。

英語は文法を選択した。ある日の授業で、次ぎのような文を受動態から能動態に書きかえる質問が、クラスにあった。 「The teacher was driven. を能動態にせよ」との問題。クラスの生徒が全て間違えた問題で、「こんなの簡単」と思って、手も上げなかったが、クラスメートは次々と不正解。結局、おもむろに挙手。答えが分かっているのが、ボクだけだったのにはビックリ。 さぁ~て、皆さん、出来ますかな?

updated : 2004/2/15


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