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ウィスコンシンの思い出 9

私が、初めて、一人で映画館で映画を観たのは、1970年夏。私が中学三年の時で、 観た映画は「M*A*S*H」だった。中学三年生が観るには、すこし刺激の強い映画で、 舞台は朝鮮動乱の米国陸軍の移動病院。ともかく、ハチャメチャな話ながら、ちゃんと反戦のメッセージのある映画だった。この映画で、初めてアメフットの観たようなものである。そして、陽気なアメリカ人の印象を強く持った映画でもあった。

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さて、時は、1973年8月の最終日曜日。場所は、ウイスコンシン州はFAIRCHILの小学校の裏の牧草地。グレッグに誘われた「ドンキー・ベースボール」の会場。よくもまぁ~、こんなバカげたゲームを考えついたと、半ば呆れるゲームで、ピッチャーとキャッチャー、そしてバッター以外は、すべてドンキー、即ち「ロバ」に乗ってプレイするゲームだった。

ボールとバットは、プラスチック製。まずは、ピッチャーがソフトボールのように、ボールを下手で投げる。それを、バッターが打ち、素早く、バッターはロバに乗り、一塁を目指す、守備もロバに乗って、ボールを追いかける。観客は、ビールを呑みながら、ワイワイとはやす。ビア・ドリンキング・コンテストなどもやっている。ビールは、ポンプ式のけ金属樽で、紙コップで呑む。当時の飲酒年齢制限は、ウイスコンシンでは18歳と寛大だった。だいたい、人口800人ほどの村、FAIRCHILDのこと、グレッグなんかは、17歳だったがビールを呑んでいた。まさしく、「M*A*S*H」の世界だった。

ともかく、このロバが、まったく言うことをきかない。ヒットで一塁に向っても、そのまま外野のライトまで走りぬけるし、守備をしていても、途中で寝る。手綱をひっぱりながら、ボールのところまで、辿りついて、一塁に投げる。当然、所かまわず、クソをする。勝ち負けのかいゲームだ。勝っても嬉しくないし、負けてもナンてことないゲーム。しかも、観客ガ、ビア・ドリンキング・コンテストで、誰が一体、一番呑んでいるか?を競っている。そんな風景が、のどかな牧草地で繰り広げられたのが、1973年8月26日、ウイスコンシン生活4日めのことだった。

なお、冬には、ドンキーバスケットボールも体育館で開かれた。こちらも、プレーヤーは全てロバに乗っての試合。ベースボールと異なるのは、ロバのクソは、プレーヤーが自ら掃除する。こちらの出場は、ご遠慮させていただき、観客となって、ハラかかえて笑わせてもだいました。

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学校は、それなりに楽しめた。まず、イイ友人に恵まれた。それは、アメフット部に入部したからで、しなかったら、また別の留学生活だったと思う。アメフット部員やチアリーダーたちは、文字通り、学校の中心グループで、当然、その中心のグループに、スキもキライもなく、身を置くこととなった。化学の授業の先生が、アメフットのヘッドコーチだったことのあって、化学の授業には、アメフット部員が多かった。試合が近づくと、化学の時間は、アメフット部員たちにとっては、ロッカールーム集合の時間となった。そこで、前回の試合や対戦相手の試合などの16ミリを観るのだ。

アメフットの一週間のスケジュールは、まず、火曜日から木曜日までが練習。金曜日の夜に試合(一試合だけ、土曜日の昼間にあった)して、土日は休み。月曜日は、2軍の試合があった。ボクは、1軍と2軍でプレーした。4日間に2試合をしたこととなる。なぜ、2軍だったかというと、とにかく、日本からの留学生に試合に出て、経験をさせたいというコーチ陣の配慮からだった。

防具、スパイク、練習着、靴下、バスタオルなど、部員全員にすべて学校から支給された。唯一、白いユニフォームだけは、自己負担だったが、留学生ということで、これも支給してもらった。何しろ、こちらは$200しかないので、これには、本当に助かった。

準備体操から、「わぁ~アメリカやなぁ~」と感じ入った。OSSEO-FAIRCHILD高校のニックネームは、CHIEFTAINSで、準備体操の1,2,3・・・のかわりに、「C,H,I,E,F,T,A,I,N,S(シー、ヘイチ、アイ、イー、エフ、 ティー、エイ、アイ、エヌ、エス)」と叫びながら体操する。

そして、まずは、キックオフの練習。キッキングチームとリターンチームに分かれて、練習が始まる。リターンは、必ず、リバースがダブルリバース、あるいは、リバース・フェイク。
その後、スクリメージが続く。オフェンス体型は、アイ・フォーメーション、ディフェンス体型は、基本がアンブレラ体型(6-1-4)。

練習は、やっても2時間半。試合前日の木曜日は、ヘルメットだけの練習で1時間程度だった。ボクは、ディフェンスタックルとプレースキッカーとなった。まだ、プレースキックではトーキック全盛の時代で、リーグ初のサッカースタイルキッカーだった。キッカーにさせられたのは、留学生最初の得点を記録させようとの配慮からだと、後で知った。ニッポンのような「根性つけたるでぇ~練習」ではなく、システマティックな練習は、いつも楽しく、ワイワイやっている感じが気に入った。 心地よい疲れの嬉しさが、今も体に記憶されている。

updated : 2004/2/15


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