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ウィスコンシンの思い出 5

8月20日の夕食を、どこで取ったかの記憶が、まったくない。機内食で済ましたとは思うのだが、とにかく記憶がない。ホテルの一部屋に、男子だけが集まった。紙風船バレーのせいでもないだろうが、喉が乾いていた。ホテルにチェックインして、部屋に入るまでに、自動販売機があったことを思い出した。プールサイドにあったのだ。我々は、お小遣いとして一人$200を持たされていた。一年間を、これで過ごせというルールだからだ。(今から考えると、よくもまぁ~一年間を$200で過ごしたものだ、と感心する)

紙幣では自動販売機は動かない。ホテルのフロントで、$1札を両替してもらおうとなった。
  「ホンデ、英語で何ちゅーんや?」 と誰かが言う。
  「チェインジ、プリーズ、ちゃうか!」 とボク。
  「そ、そやな!」
ということで、ボクともう一人が、ホテルのフロントに出向いて、$1紙幣を崩して貰うこととなった。恥をかくなら、2人で充分というわけだ。

フロントで「チェインジ、プリーズ」と言ったら、フロントマンが、OKと、何枚かのコインと交換してくれた。感激した!ホノルルでの情けない会話もあったので、特に嬉しかった。急いで、部屋に戻る。「どやった?」と、全員で、コインを睨んだ。ご存知の通り、アメリカの銀色のコインは、サイズの小さい順に、

 ダイム(10セントコイン)、ニッケル(5セントコイン)、クォーター(25セントコイン)
  < これとは別に、銅色のペニー(1セントコイン)がある >

ところが、小さい順に5、10、25セントと勘定したもんだから、どうしても、$1にならない。そこで、到達した我々の結論は、「アメリカのホテルでは、両替しただけで、チップを取る」というものだった。真剣な会話であったことが、悲しい。誰一人として、アメリカのガイドブックを持っていなかったのが、もっと悲しい。

ともかく、残りの全員が、フロントに行って、両替をして、自動販売機でコーラ、ジュースを「買い求め、喉を癒した。

就寝。スプリングの効いたベッドに、2人で寝るわけだ。消灯して、しばらくして、私が寝返りをうったら、隣のヤツが、「地震だ!」と叫んだりもしたが、ともかく、長い8月20日は終わった。

◆ ◆ ◆

8月21日。引率の1期生のご夫妻(会長&副会長のご長女が一期生で、我々は16期生)が、朝食をおごってくれるという。レストランの窓際で席を取った。とにかく、晴れわたっていたのが印象的だった。何が食べたい?と聞かれ、ボクは「オートミール」と答えた。オートミール!いかにも、アメリカ的な響きがするから、という理由だったが、実にまずかった。それ以来、オートミールは口にしていない。そして、空港に向かった。

Wisconsin留学組は、私の他に、もう一人いた。東京出身のT嬢。彼女は、恐ろしくオシャベリで、その日本語力にも驚いたが、英語力は、それ以上だった。彼女のお父様が、JALの機長で、何回も海外旅行をしているとかで、マジで助かった。こっちは、初めてのジェット機に搭乗できただけで感激し、初めての海外でオドオドしているのに、彼女ときたら、実に慣れたものだ。全て、彼女のご指示通りにさせて頂いた。どこか、今の家内との関係に似ている。

ウエスターン航空のセントポール・ミニアポリス直行便の搭乗口に向かう。セントポール・ミニアポリス空港に、それぞれのホストファミリーが待っていると説明を受けた。もう、こうなると信じるしかない。もし、居なかったら、とりあえず、$199と数十セントの手持ちと、英語力&海外旅行力バツグンのT嬢がいる。何とかなるさ!ケセラセラてなもんで、機内に乗りこんだ。実に快適な空の旅だった。まだ日本語の世界だったし、 T嬢は喋りまくってはいたが、それも、まぁ楽しかった。男子校だったので、若い女性が隣に座って、話してくれるなどという経験もなかったから余計だ。

その後、彼女のホストファミリーに問題があり、何度か電話で相談を受けたが、結局、翌年になって、ホストファミリーを変えて、ニューヨーク州に移った。T嬢は、20年ほど前、国際結婚されてベルギーに在住と聞いた。また、留学から数年後、T嬢のお父様が操縦されていたJAL便がハイジャックされた。ビックリした。それがダッカ事件である。

updated : 2003/7/30


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