≪ 前へ  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10  次へ ≫

管理人より

いつもPacker Zone掲示板に参加されている"パンパカパッカーズ"さんは、実は某大学でアメフト部の監督をしておられます。その監督さんにお願いして、高校時代にウィスコンシン留学された時の思い出を、じっくりと語っていただくことにします。

ウィスコンシンの思い出 1

これは以前に、私が監督をしているフットボール部のHPに「Wisconsin物語」として掲載していたものです。そのHPが移設され、現在は、もう見られなくなったこともあり、 加えて、私が Wisconsin とかかわって30年目ということでもあり、改めて「Wisconsinの思い出」として始めることとします。

さて、時は、ちょうど30年前の1973年に遡ることとなります。

◆ ◆ ◆

まったく、人生では「ヒョンなこと」が連続することがある。大阪近郊の公立中学から、高校に受験するときも、そうだった。71年1月中頃、担任から志望高校を記す紙キレを預かって、その夜に両親と相談となった。中学3年になってから、幾度となく貰った「紙キレ」で、「今度は、どこにする?」と、半ば抽選か投票感覚で、ずっと志望高校を書き込んできた。「今度は、ココにしよ」と、面白がって、兵庫県の私立の某高校名を書き込んだ。数日後、担任から呼びつけられた。無謀なことを書いたかな?と思って職員室に出向いたら、「○○高校に電話したら、オマエの学力で行けるかも知れん。オマエ受けてみぃ~」と言われる。自宅に戻って両親に報告したら、ビックリしている。記入はしたものの、そんな話になるとも思うわず、しかも、ご近所で、この学校を受験した人など、誰も知らないし・・・。聞くと創立以来2人目の受験らしいとは、受験の面接官の先生から聞かされた。

ともかく、合格してしまったのだ。この受験&合格がなかったら、高校留学などは、絶対にしていない。この高校は、冠に「英語の○○」と言われるほど、英語教育には事のほか熱心な学校で、当時は珍しく、LL教室があり、米国人教師がいた。黒人の先生というのも珍しかった。英語のテストの設問から英語だった。

就職して、独身寮の食堂で夕食を取っていたら、食堂に置かれたテレビに、この黒人の先生ご一家が映っていたのを見て、食べているモノを噴き出した。「人生ゲーム、ハイ&ロー」にご出演だったのだ。この先生とは、留学から帰国して、初めてマトモな英語の会話をしたことを思いだす。

中学までの英語には、かなりの自信があったが、しかし、この高校では、そんな自信は、簡単にブっ飛んだ。皆、恐ろしいほど、英語が出来るのだ! クラスでも、英語の成績は下位グループに定着していた。英語が出来ない連中は、他の教科が優れていたのだか、他の学科だって、自信などカケラもなかった。各教科の欠点ラインが60点で、ひとつでも欠点となると、留年という厳しい進級のルールがあって、とにかく、どの教科も「ゲタ」を貰うことに必死だった。

◆ ◆ ◆

そんなボクが、高校留学のテストを受験することになるんだから、まったく、不思議なことだった。高校2年の秋、クラスの英語の成績の優秀な連中に、担任から「高校生の高館留学のテストを受けてみてはどうか?」という話がでた。当然、ボクにはない。その優秀な連中の2人が、同じく大阪から通学組。いつも同じ電車だったこともあって、「オマエも受けろよ?」と誘われた。「ほんなら!」と、英語劣等生のボクも受験することとなった。この辺のノリは、関西人である、まったく。9月頃末だったか、神戸で受験した。英語の筆記とヒアリングだった。この試験は、当時は、「競争試験」で、各地区からの合格者数が、あらかじめ決まっている留学だった。今でも不思議なのだが、あれだけ英語が優秀だった連中が、ことごとく不合格となった。ボク?ボクが合格するほど、世の中甘くない。当然、ボクも不合格だった。

10月末になって、また担任から、「別の交換留学の案内が来てるでぇ」と、教えられた。この前の受験で懲りた連中は、受験拒否した。そのなかでも、一番ひょうきんなMに、ボクから、「・・・そやけど、受けヘンか?」と誘ったら、「ん?受けよか?受けよ!受けよ!」と話に乗ってきた。彼も、やはり関西人だった。ノリがイイ。11月のある日曜日、大阪の会場で、両親同伴の上の受験となった。英語筆記テストと面接、日本語の筆記テストと面接だった。両親まで、質問されていた、当然、日本語だったが。

一週間後に、まず、Mに合格通知が来た。彼は、中学は主席の成績だったらしいから、これは、誰もがうなずいた。その2日後、ボクのところに、「(仮)合格」の通知が来た。これには、例え(仮)とはいえ、担任が驚いた。授業中、「こいつが合格するなら、学年全体が合格できたな!」と言ってのけた。反論するモノは、何もなかった。ボク自身、「ソー言われれば、ソーやな。ウマイこと言いよる」 と感心したもんだ。 が、宝くじも買わなきゃ、当たらないのですよ!

◆ ◆ ◆

後日聞かされた話だと、この時差の2日間は、激論の2日間だったらしい。まず、ボクの英語の筆記試験は、何か書いてはあるが、点数は限りなくゼロ点。しかしながら、日本語の一般教養テストは満点。しかも、英語の面接では、それなりに答えている。過去に例を見ない試験結果に、激論となったらしい。当然、「こんなに英語が出来ないヤツを米国に送れない」という意見がほとんどだったらしい。しかし、その中で、お一人だけ「これは、英語でストライキをしているだけ。英語は、あと半年、勉強すれば、どーにかなるから、留学させるべき」と発言された方がいらっしゃった。

ラッキーだったのは、この試験が「競争試験」ではなく、「資格試験」だったことと、「留学させるべき」と主張されたのが、その組織のNO.2。しかも、No.1の奥様だった。帰国後、その奥様から「でもね?あの年は、英語満点の子は留学させていないのよ」と。有難かった。が、英語満点でも留学出来ないとは、かなりの選考基準だったんだと、感心した。英語なんかよりは、「人」を大事にした選考基準。なかなか出来るモノではない。

どこの家庭も、奥様は強ぉーござんす! このご夫婦も例外ではなく、ご主人が、いつもパイプをくわえた、天才肌の学者。その特許を使った製品の会社の社長が奥様だった。このご夫妻は、米国旅行中にその組織を知り、創設者から、是非、娘さんを留学させてと、第1期生として、娘さんを留学されたのがキッカケ。私が留学する16年前の話。以来、「手弁当&持ちだし」で、この留学組織の会長と副会長をボランティアされていた。

今、我々の仲間では、半分冗談で、「プロジェクトX」に取り上げて貰おう、なんて話もある。私よりも4年後輩に、元郵政大臣の野田聖子がいる。将来、大臣になるとも思わず、留学前に指導したのだが。

ご主人は、20年ほど前に亡くなったが、奥様は、90歳を越えられたがご健在。つい数年ほど前まで、ニッサン・グロリアのマニュアル車を、文字通りブっ飛ばして、ゴルフもされていたが、さすがに、孫から 「やめてくれ!」と懇願されて、やめられたと聞いた。

ともかく、高校受験も、留学試験の受験も、そして、この奥様の存在も・・・。
まったく、人生とは「ヒョンなこと」が連続するものだ。

updated : 2003/7/28


≪ 前へ  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10  次へ ≫