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ウィスコンシンの思い出 4

ホノルル到着。通関審査。さっそく、審査官が、英語でペラペラと聞いてくる。 「はぁ~?」と聞きなおしたら、「シンコクスルモノ、アリマスカ?」と流暢な日本語が返ってきた。「ア~リマセ~ン!ア~リマセ~ン」と米国での第一声が、日本語だったことは・・・。

我々のビザは、Jビザと呼ばれるビザで、ちょっとやそっとでは、米国政府が発行してくれない。通常の留学ならば、Fビザ。ところが、このJビザは、「母国にとって、有益な人材が米国に長期に滞在する」ことを前提としており、一度発行されたら、2度目の発行は、一定期間を置かないと発行されない、と説明を受けていた。要するに、優秀な人材の海外流出を避けるためのビザらしい。我々は、日本国にとって有益な人材で、しかも、将来のニッポンを背負って立つ若い世代の高校留学生ということになる。そういう意識は、ボクは働かなかった。仮合格関係で頭がイッパイだったのだ。だから、今では、ニッポンを背負うどころが、押しつぶされそうな状況に至ったというわけだ。それにしても、私の第一声が、日本語だったことは、実に情けない話である。ビザには、「仮合格」との明記されていないので、おそらく、審査官も不安がっただろう。「コイツ、ホンマに日本にとって有益な人材?こんな英語で大丈夫かいな!」と。

現在は、米国の短期業務と観光は、ビザなしでOKと聞く。昔は、Bビザが必要だった。FビザもJビザも、おそらく、今も存在すると思う。このビザで入国して、他の国に、例えば、カナダやメキシコに観光で行ったとすると、ビザ申請時と同じフォーム(だいたい、学校が発行する)を持参しないと、再入国が認められなかった筈。

そして、機内に戻り、離陸。サンフランシスコに向かう。到着。夕方だった。まず、ゲートをくぐると、サンフランシスコ近辺のホームステイする連中の、ホストファミリーの歓迎を受けた。そして、そのまま、ホストファミリーに連れられて、行ーっちゃった。赤い靴は履いていなかったが。その日のうちに、サンフランシスコからの乗り継ぎ便のあるような大都市にホームステイする連中は、ここで乗り継ぎ便で向かった。その日のうちの乗り継ぎ便もない所にホームステイが決まっている約20名、即ち、「田舎組」は、その夜は、サンフランシスコに宿泊すると告げられる。そこに、同級生のMもいた。

つい先日亡くなったボブ・ホープを見ると、このMを思い出す。顔つきが似ているからだ。それはともかく、このMも田舎組で、アイオワ州の人口200人の村に留学した。農家のホストファミリーで、まずは、「ロッキー・マウンテン・オイスター」の作業をされられたらしい。「ロッキー山脈の牡蛎」とは、ブタの去勢である。(ブタのタマタマを「牡蛎」に見立てている) 後年、この人口200人の村を車で通りかかったことがあるが、まだ、あそこよりは、我がFairchildは「都会」だった。

乗り継ぎ便で向かう連中を、送りだすまで、「田舎組」は、空港内の通路横の待合室で、待つように指示される。30分もすると、やることもないので、待つことに飽きる。一人の女子が、紙風船をカバンから出した。オリエンテーションでも、「お土産は、安くてもイイから、日本的なモノを」とレクチャーされてた。そのとき、なるほど、これは、まさしく「安くて、日本的だ!」と感心したが、私と同級生のMは、そこで、その紙風船を取り上げて、膨らまして、紙風船バレーを始めた。回転レシーブ、Aクイック、Bクイック、時間差攻撃、・・・などを、紙風船で始めた。それも、スローモーションで。何しろ、空港の通路横だ。トランジットのアメリカ人が行き来する。だんだんと、紙風船バレーのまわりに人だかり。とにかく、受けた。拍手喝采とは、あのことだ。関西人の血が騒ぐ。関西人の悪いところは、「受ける」と幸せになる。幸せになるだけなら、まだしも、増長する。単独だと、まだイイ。複数になると、ライバル意識が芽生え、限度なく、受けを狙いだす。幸い、風船が壊れて、ゲームセットとなった。

乗り継ぎ組も全て乗り継ぎ、我々は、空港近くのホテルに向かった。何しろ、低予算だったんだろう、我々は、ダブルベッドが2つある部屋に、4人詰めこまれた。

updated : 2003/7/30


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