グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2014年1月11日

ヘッドコーチ解任と採用の現実

長文になるが、例によってアンドリュー・ブラントの興味深い回顧談を紹介したい。彼は1999年から2008年までパッカーズに在籍し、選手サラリー/サラリーキャップ担当の副社長だった。その前は選手の代理人を務め、またNFLヨーロッパでバルセロナ・ドラゴンズのGMを務めたこともある。パッカーズ退団後は各NFLメディアで金銭面・法律面の解説に重宝されているほか、ペンシルヴェニア大経営大学院でスポーツ・ビジネスの教鞭を執っている。

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レギュラーシーズンが終わるとともに何人ものヘッドコーチとそのスタッフが球団を追われることは、この時期の恒例行事となっている。ライバル球団が急激な成績アップを果たすのを目の当たりにしたNFLオーナーたちは以前よりも忍耐力をなくし、そのぶんコーチたちの賞味期限は短くなってきている。

しかも、純資産が$1ビリオン(1千億円)にちかづく、あるいは超えているオーナーもおり、契約期間内のコーチを解雇することで、残る契約期間の支払い義務を果たすことは彼らにとってわずかな負担にすぎない。たとえば、$1ビリオンでブラウンズを買ったジミー・ハスラムにとって、ロブ・チャジンスキー元HCに$10.5ミリオン(残り4年分)支払うことはわずかなコスト負担だ。

頻繁にヘッドコーチが解任(昨年8人、今年7人)されるのは、将来の成功のために若手を起用することが多くのコーチにとって難しい、という問題を示してもいる。マネジメント部門が「ドラフトと育成」をモットーとしていても、コーチ(とその代理人)は、「NFLではいま勝たなければ意味がない」というプレッシャーを常に感じている。このジレンマが消えることはなく、最近の大量コーチ解雇で問題は複雑になるいっぽうだ。

私はパッカーズ副社長を務めた9年間で、「別の方向に進む」(管理人注: 「解雇」という言葉を避けるためにこうした偽善的な表現がしばしば使われる)を2回どおり見てきた。じっさいの解雇通告はごく短く、1分間か2分間のことだが、その余波は長く続く。選手の解雇と同じく、愉快なものでは決してない。こうした決断は人々の自尊心を痛めつけ、非常に感情的な出来事になることもある。

私が経験した解雇プロセスの2つの例を振り返ってみよう。

最初の解任

私がパッカーズに加わったのは1999年。マイク・ホルムグレンがシアトルに去ったことにともない、レイ・ローズが新しいスタッフとともにヘッドコーチに着任した直後のことだった。私とレイはともに新入りで、ランボーフィールドから道をはさんだモーテルで数か月暮らした「寮の仲間」だった。そのため、やがて家族が到着すると家族付き合いをするようにもなった。

8勝8敗シーズンが終わる直前、妻と私は大晦日にミレニアム・パーティを開いた。陽気な集まりで、スタッフはみな夜通しダンスを楽しんだ。2日後のシーズン最終戦の日、ロン・ウルフGMから「試合後も残っているように」と私は指示された。そして試合終了後、レイとそのスタッフを解雇することを告げられた。私にとっては青天の霹靂だったが、前々日のパーティが「解任のショックを和らげるためのものだった」という誤った認識が広まらぬよう自己弁護する必要が出て来てしまった。これは私にとって、フットボール界における人生についての厳しい洗礼となった。妻と私は、フットボール界の外に友人関係を作らなければいけない、と思い知らされた。

レイ・ローズHCとロン・ウルフGM

レイ・ローズは真の”プレーヤーズ・コーチ”であり、結局のところ、タレント豊富だが規律に欠けるチームのために解雇されることになった。彼が第16週の@タンパ戦のあと、数人の選手がタンパに2日ほど残ることを許した件を、ウルフはとくに怒っていた。この件がとどめになったことを、私は解雇の夜に知った。

レイに解雇を知らせるのは最終戦の翌朝、というのが当初の予定だった。ところが、私たちがランボーフィールドから出ていくと、レイが駐車場にいて、自然と機会が生まれてしまった。ロンとレイは私から数歩離れた。話はごく短く、だいたい90秒ぐらいだっただろうか。レイがロンの、そして私の手を握って言った。「チャンスをくれてありがとう」。 それで終わりだった。

その余波は長く続いた。私はアシスタントコーチたちと面談し、契約のオフセット条項(契約期間のサラリーは保証されるため、浪人する場合は全額、次の仕事で減俸になるならばパッカーズが差額を負担する)について説明し、できるだけ人間味をもって接することを心がけた。それから私はジェシー・ジャクソン師の相手もしなければならなかった。就任わずか1年、8勝8敗で解任する理由を(管理人注: 人種偏見が一因ではと)詰問してきたのだ。私はできるだけ情報を開示した。(レイ自身はジャクソン師の口出しに困惑していたが)

最初のコーチングスタッフ解任は私にとって厳しいものになった。残念なことに、6年後にまた同じことを経験することになる。

2回目の解任

マイク・シャーマンHCは無名の存在からわずか2年で、ロン・ウルフの引退によりゼネラルマネージャーも兼任するようになった。彼は難しい役回りを引き受けることになった。選手から好かれ信頼されなければならないのに、同時にマネジメント面で財布の紐を引き締めなければならない。そこで、私が悪者の役回りを求められた。契約交渉においてはそれが必要だと、私は100%理解していた。しかし、ヘッドコーチ兼GMがまったく無感情な人間でないかぎり、こうした事業モデルはうまく機能しない。マネジメント上の決断は、現場から離れた人間の役割であるべきなのだ。

GMを兼任していたマイク・シャーマンHC ドラフトのウォールームにて

2005年にテッド・トンプソンがシアトルから帰ってくると、シャーマンはヘッドコーチとして留任したものの、GM職を奪われることになった。あの年は難しい状況だった。私もいくつかのミーティングに加わったが、コーチ側の短期的な要求と、GM側の長期的な利益がせめぎ合っていた。QBアーロン・ロジャースをドラフト指名したのがその典型例だ。

1年後にトンプソンはシャーマンを解任した。その会談は(私は加わらなかったが)わずか数分で終わったことを私は知っている。トンプソンはたいへんに言葉すくない人で、メッセージは簡潔明瞭。よきコーチであり、堅実な家庭人であるシャーマンはパッカーズで大きな成功を収めたが、これで球団を去ることになった。

こうして、私はNFLコーチのはかない運命をまたも間近で目撃することになった。

宙ぶらりんの人々

ヘッドコーチ解任後に残されるのは、十数人のアシスタントコーチとその家族。彼らの人生は先の知れない混乱に追い込まれることになる。通常、彼らアシスタントコーチは「次のヘッドコーチが決まるまで残るように」と指示される。彼らの運命は新ヘッドコーチに委ねられるのだ。しかし現実には、たいていのアシスタントコーチは解任されたヘッドコーチを追うように球団を去り、新ヘッドコーチはあらかじめ決めてあったコーチングスタッフを率いて乗り込んでくる。延命のチャンスはたいへん小さい。

彼らにとっては、数日か数週間のことが数か月にも思えることだろう。彼らはオフィスにやってきては、新しい職場を探してインターネット上を調べ、コーチ界の友人たちと電話で連絡を取り合う。妻たちは不動産屋、引っ越し業者、学校と連絡を取り合っている。これまでのコーチ人生で培った人間関係の恩恵を受けられないものかと期待しつつ、先行きへの不安に支配されることになる。 

新人QBアーロン・ロジャースが契約にサインしたときもアンドリュー・ブラントが相手

今どきのヘッドコーチ選び

ヘッドコーチを選ぶアプローチはチームによってさまざまだ。私が働いた球団はパッカーズだけで、そこにはオーナーがいない。私の経験したGMはロン・ウルフとテッド・トンプソンの2人で、彼らは選考プロセスにおいて100%の権限と裁量権を持っていた。

選考に誰が加わるかはチームによって、球団の構造によって違ってくる。管理職人材斡旋会社(ヘッドハンター)を利用する球団もある。会社のCEOを探すためものだったそうした会社は、今では球団幹部やコーチを選ぶ1つの方法として定着してきている(管理人注: パッカーズも2008年に新社長を探す際にそうした会社を利用して一次選考を行った)。しかも高額なビジネスだ。斡旋会社への手数料は、選ばれた人物の1年目のサラリーの20%から30%となっている。この業界のトップ、ジェド・ヒューズは元コーチの経験をNFLでのコーチ選考に活かしている。

私の考えでは、ヘッドコーチ探しは広範かつ徹底的なものであるべきだ。最初から特定の候補に集中するチームがあるのもわかるが、1月の早いうちに慌ててヘッドコーチを決めてしまうのは私には理解できない。選手が球団施設に戻ってくるのは4月だというのに。

ヘッドコーチ経験者、コーディネーター経験者といった既成概念にとらわれない選び方をするチームは残念ながら多くない。イーグルスがチップ・ケリーを口説き落としたことを、昨年私は称賛した。彼のコーチング、スタッフ構成、運営上のアイディアはふつうと違うだけでなく効果的だ。ケリーの準備メソッドを模倣するチームがいずれ現れるだろうと私は感じている。

さて、私が経験したグリーンベイでの2回のヘッドコーチ選考プロセスを振り返ってみよう。

マイク・シャーマン当選

1999年シーズン後のレイ・ローズHC解任にともない、ロン・ウルフGMは前回より幅広いヘッドコーチ探しに乗り出した。前年ローズを選んだときには、NFLヘッドコーチとして実績のある人物に限定してしまったからだ。

候補との面談において、ロンはポジションごとのロースター構成を説明し、私が財政面での現在と将来について話したこともあった。そしてコーチの側は、彼のプラン、哲学、コーチングスタッフの候補、ロースターについての考えを話した。

マイク・ホルムグレンの推薦もあって、我々はマイク・シャーマンと面談した。以前グリーンベイで1年間(管理人注: 実際は2年間)TEコーチをした人物だ。シャーマンとの面談の日のことを私は鮮明に覚えている。私が別の候補と電話で話しているとロンが私のオフィスにやってきて、喉を切る仕草をして会話を終わらせた。「見つけた」と。

ロンによると、彼はシャーマンに度肝を抜かれたという。シャーマンは2月1日からシーズン終了まで毎週の詳細なスケジュールを披露した。コーチングスタッフ選びも、コーディネーターからクォリティコントロールまですべて終えていた。そして、我々のロースターに関する完全かつ詳細な知識を備えていた。今後難しい状況に陥った場合はどうする、という設問にも適切な返答が返ってきた。大穴候補に過ぎなかった彼が、見事な面接内容で仕事を勝ち取ったのだ。

QBブレット・ファーヴとマイク・シャーマンHC

多数のコーチを抱える代理人

ホルムグレン門下の多くのコーチと同じように、ボブ・ラモンテがシャーマンの代理人を務めていた。毎年数人のヘッドコーチ候補を売り出してみせる彼は、大事な瞬間がきたときのために、大量かつ詳細なノートをコーチに準備させる。興味深いことに、今年彼が売り出している1人がパッカーズのベン・マカドゥーQBコーチであり、ブラウンズとの面談も報じられている(面白いことに15年前、当時パッカーズのQBコーチだったアンディ・リードをヘッドコーチに採用したのが現ブラウンズのジョー・バナー社長)。ブラウンズはラモンテの顧客ととりわけなじみ深い。最近だけでもマイク・ホルムグレン(元社長)、パット・シャーマー(元HC)、トム・ヘッカート(元GM)のトリオがいる。

ラモンテはまた、このほどレッドスキンズの新HCに選ばれたジェイ・グルーデンの代理人でもある。兄ジョンの代理人も長年にわたって務めていた。ジェイ・グルーデンはワシントンの次に他のチームを訪れて面談を行う予定だったが、それは(契約締結によって)キャンセルされた。彼が球団施設にいるうちにワシントンが獲得してしまわないと逃げられるぞ、という印象をラモンテが作り出したのだろう、と私は感じている。

ラモンテは2006年にもヴァイキングスで似たような状況を生み出した。ブラッド・チルドレス(当時イーグルスOC)はヴァイキングスと面談し、次はグリーンベイで面談を行う予定となっていた。そこでラモンテは、チルドレスがグリーンベイ行きの飛行機に乗ってしまったらライバルに奪われる、という印象をヴァイキングスに植え付けた。結果としてチルドレスはグリーンベイに向かうことはなく、ミネソタとの5年契約がまとまった。

いずれ劣らぬ両候補

2006年、マイク・シャーマンの解任にともない、テッド・トンプソンGMは広範かつ包括的なヘッドコーチ探しに乗り出した。相手のいる街に行って面談したこともあるし、こちらのオフィスに招いて行うこともあった。こちらのオフィスに来たのは、ウェイド・フィリップスショーン・ペイトンマイク・マッカーシーたちだった。

若き才能をドラフトし育成する、という方針からも予想できるように、トンプソンの面談では人事面の話し合いに重点が置かれた。選考プロセスでまず前面に出たのは、ジョン・シュナイダーレジー・マッケンジージョン・ドーシーだった(いまは3人とも他球団のGM)。彼らがロースターの詳細を説明し、特定のポジションの将来、どのベテランが長期的プランから外れるか、といったことを話し合った。ヘッドコーチ候補の側は、選手たちについての見方、チームのビジョン、コーチングスタッフの候補について話をした。私自身も、短い時間だが候補と面談し、こちらの財政状況を説明した。

最終候補はペイトンとマッカーシーになった。どちらになってもハズレではなかった。"boundary"、"edge"、"perimeter"といった用語を駆使する彼らのオフェンス哲学を聞くのは楽しい経験だった。(管理人注: ともに優勝を成し遂げ、通算成績もよく似ている。ペイトンはパッカーズでのHC就任を強く望んでいたという)

二人三脚でスーパーボウル制覇を成し遂げた マッカーシーHCとトンプソンGM

ショーン・ペイトンよりもマイク・マッカーシーを選んだ決断についてテッドは多くを語らなかったが(彼は何事についても多くを語らない)、過去のつながりが要素になったのはたしかだ。マッカーシーは1999年にレイ・ローズHCの下でパッカーズのQBコーチを務め、ジョン・シュナイダーとはチーフス時代から長い付き合いがあった。(後に、妻になる女性をマッカーシーに紹介したのもシュナイダー)

テッドはマイクの"ピッツバーグ・タフネス"と謙虚さが気に入った。私がマイクと一緒に過ごした2年間でもっとも感心したのは、彼の選手に対する「心の知能指数」(感情を理解する能力)だった。彼は勝っても負けても人間が変わらず、もっとも効果的なタイミングを選んで感情的爆発を示すことができる。

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残念ながら、コーチの解雇と採用の季節はNFLカレンダーの重要な一部として組み込まれ、それはプレーオフと同時進行している。球団の資産的価値がうなぎ上りとなり、最下位からトップへといった成功例が増えるにつれ、短期間でコーチが解任される流れが弱まることはないようだ。最高レベルでコーチすることの見返り、とくに経済的な部分はたしかに素晴らしいが、雇用の安定に関しては毎年悪くなるいっぽうだ。

 

管理人より

これまでにもアンドリュー・ブラントの興味深い話を何度か取り上げましたので、まだご覧になっていない方は以下のリンクからどうぞ。

カテゴリ : Coach/Front Office