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CBアル・ハリスがパッカーズで正式引退
グリーンベイ・パッカーズ ニュース
2013年5月 3日
2010年まで先発CBとして大活躍したアル・ハリスが、パッカーズ選手として正式に引退した。2011年の前十字靭帯断裂を最後に現役を退いた彼は、昨年はドルフィンズでインターン、今年からチーフスでアシスタントDBコーチに就任している。1日契約を結んだのかという質問には、「よくわからん」とくすくす笑っている。本人と球団から正式に発表をして、こうして区切りになれば書類上のことはどうでもいいのだろう。
「キャリアを通じて僕は素晴らしい時を過ごしてきたけど、とくによかったのはグリーンベイだった。だからパッカーとして引退することが僕にとって大事だった。イーグルスで5年間素晴らしい経験をし、その他に所属した球団でも同様だったけど、グリーンベイはフットボールをプレーするには特別な場所だ。僕は自分をパッカーだと思っているし、これからもずっとパッカーとして記憶されたい」
「1つやるべきじゃないのは、まだタンクに燃料が残っていると知りながら去ることだ。タンクが空になったなら、安らかな気持ちで去ることができる。僕はタンクを空にしたよ」
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アル・ハリス Alshinard "Al" Harris はフロリダ州ポンパノビーチ出身の38歳。テキサスA&Mキングズヴィル校から1997年6巡指名でバッカニアーズに入団したものの、1年目はプラクティス・スクワッド暮らし。2年目の開幕前に解雇されてイーグルスに拾われると、プロボウラー3人を擁する豪華DB陣の中で徐々に頭角を現した。2003年に2巡指名権とのトレードでパッカーズに移ると、一流コーナーバックとして2009年までスターターを務めた。長らく過小評価されたが、2007・2008年と2年連続でプロボウルに選ばれている。プロ入り以来10年間欠場なし。
2009年秋にはヒザ前十字靭帯、外側側副靭帯、腸脛靭帯、ハムストリングを一度に断裂する大変な大ケガ。そのため翌2010年シーズン途中で退団となったものの、チャンピオンリングは受け取ることができた。その後ドルフィンズで3試合、翌2011年はラムズで9試合に出場したが、またも前十字靭帯を断裂して引退を余儀なくされた。昨年ドルフィンズでインターンとしてコーチ修業をスタートし、今年はチーフスのアシスタントDBコーチに就任している。
密着したプレスカバレッジを得意とする生粋のカバーコーナー。インターセプトこそ通算21回に留まっているが、それはパスを投げさせないためで、ウッドソンのインターセプトがOAK時代より激増したのもそのおかげだろう。細い体から繰り出すパンチは強烈で、どつき回された相手エースWRが戦意喪失してしまうゲームさえあった。中でもパッカーズファンの記憶にもっとも強烈に残っているのは2003年ワイルドカードプレーオフ、シーホークス戦での劇的なサヨナラINTリターンTDだ。延長戦となって2回目のシリーズの3rdダウン11、ブリッツに対してクイックに投げたパスを読んだ見事なプレーだった。
- 10年連続フル出場のあと、キャリア終盤に相次いだ大ケガについて。「残り時間は少ないとわかっていた。体が受けられるダメージには限りがあるからね。僕は長いこと自分を限界まで追い込んでいて、一度も欠場しなかったのは幸運だった。(その後のケガ連発は)神が『よし、新たなページに進む時だ』と言ったのだと僕はとらえている。次にどの道に進みたいか、自分でわかっていたし」
- ケガによる引退も、後悔は何もないという。「現実を受け入れられずに苦労する選手が多い。自分にもうできないのなら、どうすることもできないものだ。神は僕によくしてくれた。もう一度やり直すとしても、同じ道をたどりたいと思う」
- 求職中のSチャールズ・ウッドソンについて。「僕は大ケガが原因だから状況が違った。もう一度厳しいリハビリを繰り返すつもりはなかったし、自分と家族に同じプロセスを味わわせたくなかっった。チャールズはケガをしていないし、個人的にはまだ彼はやれると思う。セーフティに移ったのだし、まだ続けろと僕なら言うよ」
- プレーオフでのサヨナラINTリターンTDについて。「こちらはオールアウト・ブリッツだった。フットボールの基礎だよ。ああした場合、QBやレシーバーにできるパスは2つしかない。それはスラントかヒッチだ」
- しかし最も印象に残っているゲームは2005年第5週、インターセプトを2つ(うち1つはTD)決めたセインツ戦だという(管理人が現地観戦したゲームだ)。「あのゲームが僕のキャリアのハイライトかもしれない」
- 現役時代に関わったDCたちについて。「僕と付き合わされたコーディネーターたちに幸いあれ(笑)。僕が彼らの仕事を楽にしてやれたDCもいたし、彼らの仕事を大変にしてしまったDCもいた。僕のプレースタイルのせいでね」
- コーチの道に進むことを真剣に考え始めたのは、パッカーズの元CBコーチ、ライオネル・ワシントンとの会話だったとのこと。息子のアルJr.がそろそろ手を離れるということもあった。2011年にラムズで前十字靭帯を断裂したあと、スティーヴ・スパグノーロHC(当時)がディフェンスコーチのミーティングに出席することを許してくれた。
- 「最後の頃には、僕がコーチ志望であることを周囲がみな知っていた。息子を教えることが僕にとってどれだけ重要かをね。僕が知っているのはフットボールのことだし、情熱を持てるのもフットボールだ。待たされたくなかった。すぐに飛び込みたかった。昨年インターンのチャンスをくれたドルフィンズのジョー・フィルビンHCに感謝している。僕が本気でこれをやりたいのだと、彼も他のみんなも理解したのだと思う」
- チーフスで職を得たのはもちろんアンディ・リードHCとの旧縁による。「アンディにはこちらから連絡したんだ。就任おめでとうとね。そして自分の考えを伝えた。彼も彼の考えを話し、そこから話が進んだ」
- 息子のアルJr.(高校3年)は同じくコーナーバックとして活躍中。「1日おきに奨学金のオファーが来るよ」