グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2006年5月17日

Sマーカンド・マニュエル

シアトル残留とグリーンベイ移籍の間で迷ったSマーカンド・マニュエル。「いつでも雨のシアトルか、いつでも寒いグリーンベイかの選択だったね。そして、残留して無名の選手のままでい続けるのか、という選択でもあった。これは僕にとって大きなチャンスだ。トンプソンGMは本当に僕を信じてくれた。この10年間は僕にとってまるでローラーコースターで、いつになったら幸運は訪れるのかと思っていた」

昨季はSケン・ハムリンの負傷でチャンスをつかんだが、スーパーボウルの序盤に3-0でリードしたところで鼠蹊部を痛めて退場し、敗戦をサイドラインから見ることになった。「生涯で最もつらい出来事だったよ。頂点を目前にして・・・。神はさまざまな目的でさまざまなことを行う。僕はそれを疑ったことはない。でも退場してステーショナリー・バイクをこいでいたときは、さすがに疑ってしまったよ。見ているのはつらかった。あれはごく普通のタックルで、1000回もしてきたことなのに」

スーパーボウルの直後から、パッカーズのトンプソンGMは彼をFA候補の上位にリストアップしていた。「フリーエージェントになどなりたいわけじゃない、ここにいたい、と僕はシアトルに伝えていた。求めたのは、『僕をもっと重視してほしい、スターターになるチャンスがほしい』ということだけだった。サラリーなど問題じゃない。僕は地味な労働者だから。僕は6巡指名入団だし、ちゃんと大事にしてくれて、並の給料をもらえればそれでいいんだ。ただ、もうケン・ハムリンの控えでいるのはイヤだった。僕は名声には興味がない。でもあのままでは、いつまでも6巡指名選手としか見てくれなかっただろう」

「僕はチャールズ・ウッドソンのような超一流じゃない。自分が加わったチームを向上させる、僕はそういう選手だ。汚れ仕事も引き受け、他人のやりたがらないような仕事もたくさんやる。たぶん名声はさほど得られないだろう。でも僕はチームをより良くしていくんだ」

マニュエルのこういったメンタリティはその生い立ちと無関係ではない。両親それぞれの連れ子を含めると18人兄弟(現在は39歳から14歳まで)の中で彼は育った。堅実な家庭で、兄からのお古を着ることは多かったものの、衣食に困ったことはない。ただ、学校をサボったときだけは厳しかった。毎月だれかの誕生日が必ずあった。「人とうまくやることを教えられたのは確かだ」と彼は言う。

高校ではDB兼WRとして活躍したが、当時のコーチがよく覚えているのは彼の成熟したリーダーシップだ。「ケンカをしたらその週の試合には出さない、というルールを私は作っていた。なのにチームメイトが彼をやっかんで挑発したことがあった。マーカンドはそいつの胸ぐらをつかんで、『いいか、オレはお前なんかとケンカしたくない』と言って何もせず手を離した。すると相手がマーカンドの鼻っ柱をぶん殴ったんだ。たいていの子は、自分がキャプテンなんてことは忘れてしまう状況だろう。しかしマーカンドは相手をひっつかんで言った。『よく聞け、オレはお前なんかとケンカして出場停止になりたくないんだ』とね。私にとってはものすごく大きな出来事だった。決して忘れることはない」

フロリダ大に進むと、成績優秀の彼は3年もかからずに犯罪学の学位を取得してしまった。ただフットボールではそれほど順調とはいかなかった。1年・2年とスターターとして活躍して全米トップクラスの評価を受けたものの、3年と4年ではスターターではあったものの出場時間がかなり減ってしまい、LBに回されることさえあった。前述の高校コーチは、「しかし彼はうなだれることなく常に冷静さを保っていた。あの2年間彼はひどい扱いを受け、そのことは街の人たちはみな知っていた。プレーさせてもらえないときでもしっかり頭を上げていた。彼の人格がそこに表れていた」と振り返っている。

2002年にベンガルズから6巡指名され、1年目から8試合に先発して41タックルを挙げたものの、2年目は開幕戦に先発しただけで二度とそのチャンスはもらえなかった。3年目にベンガルズはSキム・ヘリングを獲得するなどして開幕前に彼を解雇、それに目をつけたのが当時シーホークスにいたテッド・トンプソンだった。「彼がカットされて、我々はちょっと驚いた。ドラフトの前に彼のことはかなり徹底的に調べていたからね。彼が手に入って喜んだよ」

シーホークスのマイク・ホルムグレンHCはマニュエルについて、「素晴らしい物語だよ。彼は18人兄弟で、常に自分の場所を勝ち取らなければならなかった。彼は何ごとにも感謝を忘れず、何ごとにも全力を尽くす。何ひとつ、当然自分に与えられるとは思わない。あの若者のことは、いくら褒めても足りないほどだ」と賞賛している。

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