グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2005年12月25日

The Oldest Packer Alive

ハーム・シュニードマンは93歳。現在最年長の元パッカーズ選手だ。さすがに耳は遠くなり視力も弱ってきたが、70年前にカーリー・ランボーHCから契約のオファーをされたときのことははっきりと覚えている。「1935年に彼が手紙で契約書を送ってくれた。1試合につき$80ドルの最低額だったよ。私はブロッキングバックで、ブラッド(マクナリー)や(ドン)ハトソンのようなスターではなかったからね。でも1940年にシカゴ・カーディナルスに移ったら、勝っても負けても、出場してもしなくても、1試合$135ドルだった」

1912年に生まれてイリノイ州クインシーで育ち、1935年にアイオワ大からプロ入りして1939年までパッカーズに在籍した。球団史上2人目の背番号4を着けた選手でもある。現在の背番号4が稼ぐ額は、年におよそ$10ミリオン。「現代の選手たちが稼ぐ金額は信じられないほどだね。いや全く信じられないよ」と彼は言う。彼はジョニー・ブラッド・マクナリー、クラーク・ヒンケル、アーニー・ハーバーといった名選手とともに、NFL制覇を2回(36年と39年)も経験することができた。ボールキャリーはほとんどなく、今で言えばFBヘンダーソンのようなリードブロッカー。ディフェンスやスペシャルチームをやる時には、伝説的な名レシーバーのドン・ハトソンが隣にいたこともある。

そんな彼が早期引退を強いられたのは、肩のケガと戦争のためだった。「1939年の初め頃、私はケガをして腕を動かすことができず、歩くのも困難なほどになった。大学時代の円盤投げの時の古傷だったんだ。私はカーリー(ランボーHC)のオフィスに行って、引退すると伝えた。彼は別に怒らなかったよ。すぐに代わりが務まる若手が何人もいたし、非常に強いチームだったしね」と彼は振り返る。翌1940年には シカゴ・カーディナルスの誘いでNFLに復帰するが、1942年から46年までは軍務に服し、イリノイとノースカロライナの海軍基地で働いた。「復員した時には、プレーするには年を取り過ぎていてね。コーチも少しやったが、もうプレーするよりも観る方がいいとわかっていた」

故郷のイリノイ州クインシーに戻った彼は、弟とビール販売会社を興して成功し、悠々自適の老後を過ごしてきた。今は車椅子生活となり、妻に先立たれて老人ホームで暮らしているが、引退した地元実業家たちと会を作って、毎週火曜日には昼食会を催している。仲間に人気のある昔話は、やはり彼のパッカーズ時代のことだ。暴君のような面もあったカーリー・ランボーHCについて、「たいていの連中は彼を好いていなかったが、私は何とかうまくやっていたよ。私は常にハードにプレーしていたからね」

「カーリーはとても縁起をかつぐ人だった。シーズン最初の試合に勝つと、その時着ていたスーツとタイをずっと着続ける。負けるまでね。もし負けたら、そのスーツとタイをゴミ箱に放り込んでしまうんだ。すると誰か選手がすかさずゴミ箱に行って拾ってしまう。いったいなぜ、いいスーツやタイを捨てたりするんだろう?」

「カーリーはどこに負けるのも嫌だったが、特にベアーズはそうだったね。もしシカゴに負けようものなら、私たちは試合後の食事にさえありつけなかった」とシュニードマンは振り返る。昔話だけでなく今の試合もテレビ観戦する彼は、先月のベアーズ戦について、「1stチーム・オフェンスにケガ人が多すぎるね。もしパッカーズの1stチームが全部揃っていたら、ベアーズに勝っていたと思うよ」と感想を述べている。「ベアーズ戦でファーヴは、ビッグヒットを喰らった後、すごく痛そうな顔をしていたね。しかし彼は傷ついても、プレーを続けた。タフなプレイヤーだ。我々の時代でも彼ならやれたはずだ。どの時代のどの選手とでもね。ブレット・ファーヴがドン・ハトソンにパスを投げるのを見てみたくないかい? 当時のアーニー・ハーバーもすごいQBだったがね」

地元の中学教師ゲイリー・ハンコックは熱烈なパッカーズファンで、毎週シュニードマンを訪問してパッカーズの話を聞いている。「ハームと知り合いになったのは、生徒を通じてなんだ。彼の姪の娘さんが生徒にいてね。彼の記憶力は信じられないほどだ。パッカーズ選手の写真を指差せば、たちどころに名前、ポジション、エピソード、いつ会ったかまでスラスラと出てくる。彼の目を通して、昔のパッカーズや選手のことを追体験させてもらえるのは素晴らしい。彼はパッカーズの歴史そのものだ」

クリックすると拡大します クリックすると拡大します クリックすると拡大します
現役時代 2002年 2005年
カテゴリ : History