ナイジェリア移民の無名のドラフト外ルーキーが先発RBに昇格するのだから、これはインタビューしないわけにはいかないだろう。
「父ジェレマイアは家族より1年早く、1990年に来たんだ。博士号を取るために勉強していた。父は牧師で、サウスカロライナのコロンビア・インターナショナル大学に来て勉強をした。1人でいるつもりだったけど、人々が寄付をしてくれて、僕たち家族全員がアメリカに移ることができた。僕は姉妹が4人いて、末の妹はアメリカで生まれたんだ」
「そう、(アメリカン)フットボールはナイジェリアにはない。隣に住んでいた宣教師の子からちょっと聞いてはいたんだ。僕もアメリカに来て3年か4年はサッカーをやった。父の熱愛するスポーツだったしね。7年生(中学1年)になった時、本格的にスポーツをやることになった。シーズンが重なってしまうから、フットボールとサッカーのどちらかを選ばなければならなくて、結局フットボールにした。父は最初はがっかりしていたよ。好意的に受け入れてくれるのに時間がかかったけど、それからは僕のすること全て応援してくれている。僕の一番のファンだよ。この日曜の夜にも(ナイジェリアから)電話をかけてくれて、試合がどうだったか聞いてくれた」
「インターネット・アクセスはあるんだけど、いま父はすごく未開な地域で伝道の仕事をしているんだ。そこの家に泊まらせてもらっているしね。だから、なんとか話せてよかったよ」
「英語が公用語なんだよ。でも英語が僕の母語ではなくて、ハウサ語で育った。隣の家に宣教師の一家が住んでいて、そこで英語の勉強を始めたんだ。両親は僕を全寮制のアメリカンスクールに進ませてくれた。そこで英語の多くを身に付けた」
「ナイジェリアでは、ウチは裕福ではなかったにせよ、その後のアメリカでの暮らしよりはよかったんだ。だから、僕が今ここにいられることに、誰よりも両親に感謝してる。父は6年間も夜の仕事をして、それが父には大変な苦痛だった。家族のためにそうしてくれたんだ。非常に高い教育を受けていて、とても賢い人だ。でもグリーンカードを取得する前だったから、最低限の仕事しかできなかった。家に帰ると、知的障害のある子供の面倒を見たりしていた。大変だったよ。馬の厩舎の掃除もしていた。母も頭がよくて、ナイジェリアでは教師で、教育学の修士号も持っている。でもアメリカに移ってからは家政婦をしている。今でもそうだ」
「もちろんだ。保証するよ。最初に面倒を見るのは両親だ」
「イエス。Health promotions(健康促進?)と医学部進学課程(アメリカでは医学部は大学院から)。保健衛生を専攻しながら、医学部進学課程では、有機化学を1年、生物学を1年、化学を1年という風に単位を取った」
「その二つが相反することだとは思わないね。ここにいられるのは大変な名誉だと理解してるけど、安住するつもりもない。エースになるためにどんなことでもするつもりだ。今はそうじゃない。トニー・フィッシャーが復帰すれば、彼がスターターなんだから。僕はバックアップさ。現在の地位を手放さないためにどんな努力も惜しまない。今の地位を当然のことだと決めつけたくないんだ。まだ1試合だけなんだからね」
「最初にアメリカに来たとき、ナイジェリア出身のクリスチャン・オコイエ(チーフスのRB)という選手がNFLにいるぞ、と父が教えてくれたんだ。アメリカに来て最初に親近感を持った選手がオコイエで、彼が35番だったんだよ。高校では僕も同じように "Nigerian Nightmare" とニックネームをつけられてしまった」
「向こうからの電話はお金もかかって大変だから、本当はこちらからかけたかった(でも諦めていた)。サウスカロライナの母からの電話を終えるとまたかかってきて、取ってみたら父だったんだ。現地では朝の5時ぐらいかな。父は、前週のシンシナティ戦よりはキャリー数が多いだろうとは思っていたみたいだ。だから僕は、『父さん! ねえ聞いた? ねえ聞いた? オレ、タッチダウンを決めたんだ!』 『お前がタッチダウン?』って感じだった。何週間かしたら、結婚25周年を祝うために母がナイジェリアに行くから、試合のDVDを一緒に持っていってもらうつもり」