グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2005年8月18日

1992年 ファーヴ獲得の内幕

すでにたくさんの本が書かれ、もう秘密など何も残っていないかに思われたブレット・ファーヴの人生だが、まだちょっとした秘話が残っていた。ロン・ウルフ元GMのグリーンベイ訪問にあたってファーヴは、1992年のパッカーズ移籍時にはヒップのケガのために、フィジカルチェックを不合格になりかけた経緯を明かしている。RBボー・ジャクソンが早期引退に追い込まれたのと同じ股関節のケガ、大腿骨頭壊死を患っていたというのだ。

「大学最後のオールスター戦、East-West Shrine Gameでヒップを痛めたんだ。これはAvascular Necrosis(大腿骨頭壊死)というもので、基本的にはボー・ジャクソンがやったのと同じだ。ソケットに血液の供給がなくなるものだ。今に至るまで、ときどきは悩まされることもあるよ。しかし決して隠していたわけじゃない。ドラフト前にはアトランタでMRI検査を受け、シアトルでもMRI検査を受け、コンバインでもあらゆる検査を受けた。このケガのことはたくさんのチームが認識していた」

「これについての診断は、将来いつか(人口骨頭に)置き換えたり、何らかの手当てをしなければらならい、というものだ。今でも僕はソケットの柔軟性があまりないが、(フットボールを続けるのは)賭けのようなものだ。パッカーズ移籍時には、3年か4年しかプレーできないとドクターに言われた。しかし間違っていたのは彼らの方で、ロンはリスクを承知で僕に賭けてくれた」

いまグリーンベイを訪問中のロン・ウルフ元GMが、さらに詳しくトレード時の状況を明かしている。まず当時のチーム・ドクター、クラレンス・ノヴォトニーが診察し、「不合格とすべきだ」とウルフGMに進言。しかしノヴォトニーは整形外科医ではなかったこともあり、諦めきれないウルフは、専門家のパトリック・マッケンジー(現チームドクター)に診察を依頼した。マッケンジーの診断は、4年か5年後に問題が起きるかもしれないが、さしあたっては問題なかろうというものだった。

ウルフがジェッツで人事を担当していたころからファーヴに惚れ込んでいたのは有名な話だ。1991年の(1巡指名権はなかったため)2巡7位で指名しようとしていたところを、直前でファルコンズにさらわれてしまった。しかしそのファーヴはグランヴィルHCから冷遇され、出番はまるで与えられなかった。練習はハードに頑張ったが、フィールド外での振る舞いも相当なものだった。大酒を飲みパーティ三昧で、体重は250ポンドにもなってしまっていた。「アトランタで僕がした最高のことは、バカでいることだった。今にしてみれば、まるで放出されたくてわざとそうしてたみたいだけど、僕はそんな利口じゃなかった」とファーヴは振り返る。

こうして、アトランタがわずか1年でファーヴを手放してくれるというのだから、新任のパッカーズGMとして、今度こそ手に入れたいという気持ちがウルフには強かった。「フィジカルで不合格にするなんてできなかった。私は彼を獲るために1巡指名権を手放そうとしていたのだ。彼こそ私がほしい選手だった。4年か5年で問題が起きるかもとドクターは言ったが、私は気にしなかった。結果としては、何も問題などなかったわけだ」

(キャンプを訪れたウルフのインタビューとファーヴの記者会見を取り上げた地元ニュース映像

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