グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2005年3月22日

ミルウォーキー最後のゲームから10年

パッカーズが、グリーンベイだけでなく州最大の都市ミルウォーキーでホームゲームを行うようになったのは1933年のこと。言うまでもなく、慢性的な資金難に苦しむチーム財政を助けるためだ。ボーチャート・フィールド(1933年のみ)、ステイトフェア・パーク(1934年-51年)、マーケット・スタジアム(1952年のみ)、それ以後はMLBブリュワーズと同じカウンティ・スタジアムだった。レギュラーシーズン8試合のうち2試合または3試合が、ずっとミルウォーキーで行われていた。

「あの時点では、ミルウォーキーで試合を行うことが、チーム存続のために非常に重要だった」と"Team Historian" のリー・レメルは振り返る。ボブ・ハーラン社長は、「チームにはミルウォーキーの助けが必要だった。ミルウォーキーの人々はチームの株も買ってくれた。もしあの頃、チームがグリーンベイだけに留まっていたら、いまこのフランチャイズが存在していたかどうか、わからない。ミルウォーキーがいろいろな意味で我々を救ってくれたのだ」と語る。

しかし'90年代に入ると、逆にミルウォーキーでの開催が負担になり始めた。ランボーフィールドは度重なる改装によって高額なボックス席も充実していたが、カウンティ・スタジアムは老朽化し、収益が上がらない。約100マイルを移動するコストも馬鹿にならない。こうして1994年、ボブ・ハーラン社長は、今後はホームゲーム全てをグリーンベイで行うと決断した。「今に至るまで、私がした中で最もつらい決断だった。たくさんのファンに関係してくることだからね。今でも、あの時のミルウォーキーの新聞の見出しを覚えているよ。 "The Pack won't be back" と書かれていた・・・。それでも自分はすべきことをしたと信じている」

ミルウォーキーのファンの痛みを和らげるため、カウンティ・スタジアムのシーズンチケットホルダーには、ランボーフィールドの2試合分(+プレシーズン1試合)のシーズンチケットを"Gold Package"としてこれまで同様に提供することにした。元からのランボーフィールドのシーズンチケットは"Green Package"としてレギュラーシーズン6試合(+プレシーズン1試合)とした。"Gold Package"組はレギュラーシーズンの第2週と第5週の試合と決まっており、この二本立てのシステムは現在も続いている。

ハーラン社長によると、ミルウォーキー撤退時に、カウンティ・スタジアムのシーズンチケットホルダーの96%が"Gold Package"組として継続したのだという。またチーム側も、ミルウォーキーから往復するファンのため "Gold Package" の試合の日はなるべくナイトゲームにならないよう、リーグ側に要望することにしている。「我々は彼らを大事にする必要があった。彼らとその両親、祖父母たちは、このフランチャイズを60年にわたって支えてくれたのだ。その恩を忘れたりしたら、PR的にも最悪の失敗となるだろう。今では、私が道を歩いていると、『ミルウォーキーにも一部を残してくれてありがとう』と声をかけてもらえるよ」

1994年12月18日、ミルウォーキー最後の試合となる、第16週のファルコンズ戦がカウンティ・スタジアムで行われた。パッカーズは序盤にリードしたが第4Qに14-17と逆転され、残り1分58秒、自陣33ヤードから最後の攻撃。まずTEチュムラへの25ydsパスでドライブをスタートさせたブレット・ファーヴは、再びTEチュムラへ8ydsのパスを通して敵陣9ヤードへ迫った。タイムアウトはなし。残り21秒での3rdダウン。ファーヴは右にロールしたがレシーバーが見つからず、自ら走り出した。「アウトオブバウンズへ出ろ!」と叫ぶホルムグレンHCの声は届かず、QBは頭からエンドゾーンに飛び込んだ。逆転のタッチダウン。

54,885人の観衆は喜びを爆発させた。先発3年目の若きブレット・ファーヴはチームメイトからもみくちゃにされ、バート・スター以来のフランチャイズQBの座を確固たるものにするきっかけの1つになった。ホルムグレンHCは、"Thank you, Milwaukee."とスタンドに叫んで、フィールドを後にした。62年にわたって愛したチームを失うほろ苦さとともに、球団史上に残る素晴らしい名試合の思い出が、ミルウォーキーの街に残った。

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カテゴリ : History