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ヴィンス・ロンバルディ登場

1958年、元グリーンベイ市長ドミニク・オレニチャック Dominic Olejniczak が球団社長となりました。彼はマクリーンHCを辞任させると、小委員会を編成して後任ヘッドコーチの人選を進めます。Jack Vainisi という若く優れた人事部長が綿密な調査の上で推薦したのが、ジャイアンツのアシスタント・コーチ、ヴィンス・ロンバルディ Vince Lombardi でした。面接を行ったうえで、オレニチャックがロンバルディを理事会に推薦したのは、1959年1月28日のことです。

「ロンバルディっていったい誰だ?」 というのが理事たちの、グリーンベイ市民の反応でした。

Vincent Thomas Lombardi は、1913年6月11日、ブルックリンで肉屋を営むイタリア移民の息子として生まれました。高校ではフルバックとして活躍し、地元ニューヨークのフォーダム大へ。ここではディフェンスのガードとして、伝説的な"Seven Blocks of Granite"の一員として活躍しました。大学を出ると、2年ほど金融関係で働きながら法学校の夜学に通い、セミプロのチームでプレーをしました。1939年に隣のニュージャージー州で高校の教師となり、ラテン語・物理・化学を教えながら、フットボールだけでなく、バスケのコーチもしたようです。

1947年に母校フォーダム大のアシスタントコーチに。1949年には陸軍士官学校の名コーチ、アール・ブレイクHCに誘われてウェストポイントに移ります。ロンバルディは生涯にわたってアール・ブレイクを唯一の師として仰ぐことになります。そして1954年にはついにNFLへ。ニューヨーク・ジャイアンツのジム・リー・ハウエルHCの下で、オフェンシブ・アシスタントとなります。この時にディフェンスを担当していたのが、後のカウボーイズの名将、トム・ランドリーでした。1956年にはNFL制覇を果たすなど、後の伝説的名コーチふたりがジャイアンツの黄金時代を支えていたのです。

パッカーズ理事会は26対1で、ロンバルディをヘッドコーチ兼GMにすることを承認。これまで高校を除いてヘッドコーチ経験のなかったロンバルディですが、GMを含む全権を要求し、理事たちに口出ししないことを約束させました。「私の言葉が、最終決定となる。私はこれまで、負け越しチームと関わったことはない。5年よりずっと短いうちに、勝者の精神をパッカーズに浸透させていきたい」と語ったロンバルディ。5年どころか就任直後から大きな成果を収め、フットボール史上に燦然と輝く黄金期を築いていくことになります。

フォーダム大学時代 NYG時代のロンバルディ
とトム・ランドリー
就任初年度のコーチングスタッフ

黄金期の始まり

ヴィンス・ロンバルディを選んだ判断が正しかったのか、答えが出るのに時間はかかりませんでした。最初のミーティングで感激したQBバート・スターは、ミーティングが終わると電話に飛び付き、「ハニー、僕らはまた勝てるようになる!」と妻に電話したといいます。容赦のないGMでもあったロンバルディは、"my way or the highway"、つまり、「私のやり方に従わない者はチームを去れ」という厳しいアプローチでチームの規律を取り戻し、個々のコンディショニングを高く保つことに成功します。実際、先発クラスの選手でも容赦なくトレードや解雇を行ってチーム作りを進めて行きました。

前年にわずか1勝しかできなかったパッカーズが、ロンバルディの初年度の1959年は7勝5敗。12年ぶりの勝ち越しを果たし、ロンバルディは満票でコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれました。そして早くも翌1960年には8勝4敗で16年ぶりの地区優勝を果たしてNFL決勝に進みます。この年はフィラデルフィアでイーグルスに4点差で敗れてしまいましたが、ロンバルディ時代のパッカーズがプレーオフで敗れたのはこれが最初で最後のこと。

そして迎えた1961年シーズン、チーム成績を反映して観客動員数が伸びたため、スタジアム建設4年目にして早くも客席を増設。キャパシティは32,150人から38,669人となりました。また、ロンバルディの発案でこの年からヘルメットにあの大きなGマークが加えられることになりました。この数年前からグリーンとイエローのカラーリングはほぼ定着しており、これに新たにGマークを加えたパッカーズのユニフォームの枠組みは、現在に至るまでほとんど変わらずに受け継がれています。

レギュラーシーズンを11勝3敗で終えたパッカーズは、史上初めて地元グリーンベイで行われたNFL決勝で、37-0という完璧なスコアでNYジャイアンツを下し、17年ぶりのNFL制覇を成し遂げました。NFL決勝でこれほど点差が開いたのは、1940年にベアーズがレッドスキンズに圧勝した時以来。

このNFL決勝でパッカーズのディフェンス陣は、名QBのY.A.ティトルから4つものインターセプトを奪い、オフェンス陣も全く隙のない試合運びで、それを得点に結びつけました。陸軍予備役だったRBポール・ホーナングはちょうど召集されていたのですが、彼が休暇を取ってこの試合でプレーできるよう、ロンバルディHCと親しいケネディ大統領が取りはからった、というエピソードも残っています。ホーナングはその特別扱いに応え、1人で19得点を挙げる大活躍でPlayer of the Gameに選ばれています。

TDランと3本のFG成功に加え、ハーフバック・パスまで投げた多才なRBポール・ホーナング

ロンバルディのフットボール

ヴィンス・ロンバルディのフットボールと言えば、やはり鉄の規律ということになるでしょうか。鋭い戦術眼を備えた優れた戦術家ではありましたが、特に目新しいコンセプトがあったわけではなく、比較的プレー数は少なく、シンプルなパワープレーが中心でした。executionを重視し、ひとつひとつのプレーを長時間かけて徹底的に磨き上げるのが最大の特徴でした。疲れた試合の終盤でプレーの精度を高い保つためにも、体調を常に整えること、そして非常に高いレベルの集中力を選手に求めました。就任当初、あの有名な "Packer Sweep" だけを1週間かけて練習したというエピソードも残っています。結果として、相手に読まれている時でさえちゃんとヤードが稼げる、と選手たちは自信を持つようになりました。

「フットボールは、ブロッキングとタックリングだ。その他の全ては神話に過ぎない」という彼の名文句がありますが、まさにその通りのチーム作り。スキル・ポジションにも多くのタレントが揃っていましたが、非常に強力なオフェンスラインがそれを支えていました。また、フィルム・スタディを非常に重視したのも、彼のコーチングの特徴と言えるでしょう。そして、人種偏見の強いチームがまだ多かったこの時期、そのような差別をせずどんどんチャンスを与えてタレントを活用しました。(ロンバルディのエピソード集参照

この黄金期に、QBバート・スター、RBポール・ホーナング、FBジム・テイラー、OTフォレスト・グレッグ、OGジェリー・クレーマー、Cジム・リンゴ、WRマックス・マギー、DEウィリー・デイヴィス、DTヘンリー・ジョーダン、LBレイ・ニチキ、LBデイヴ・ロビンソン、CBハーブ・アデリー、FSウィリー・ウッドなど、数々の名選手の才能が花開き、なんとこのうち10人もがNFLの殿堂入りを果たしています。彼らの多くが1950年代後半に入団し、60年代に全盛期を迎えたという幸運な巡り合わせも、もちろんあったでしょう。しかし、ロンバルディのおかげで、普通の選手だった自分が能力を最大限に引き出され、名選手になることができたのだ、と多くの教え子たちが述懐しています。その典型が、ドラフト17巡入団のQBバート・スターです。

ロンバルディが指導者として最も優れていたのは、まさにこの点にあります。彼自身、極めて強い信念の持ち主であり、選手にもそうさせるよう、あらゆる方法でモーティベートしました。神を敬い、家族を大事にし、全身全霊でフットボールに打ち込む。目標を達成するためには、あらゆる犠牲を惜しまない、男の中の男に育てていきます。その結果として、選手たちは自分の能力の限界まで自然と引き出されていったのです。コーチである前に、選手たちにとって彼は優れた教師であり、厳しい父親でもありました。そのせいか、彼の教え子たちは、フットボールのコーチとしてはさほど成功したとは言えませんが、引退後の人生で成功を収めた人が多いようです。

"Winning isn't the everything. It's the only thing."という有名な言葉が、ロンバルディ哲学として取り上げられることが、日本でさえ多いようですが、これは大きな誤りです。これについてはロンバルディのエピソード集で詳述します。

左から RBポール・ホーナング FBジム・テイラー WRマックス・マギー QBバート・スター
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