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カーリー・ランボーとの別れ

チーム創立者であり、卓越したヘッドコーチ兼GMだったカーリー・ランボー。ラン一辺倒だったNFLに積極的なフォワード・パスを持ち込み、革新的なオフェンスを作り出した功労者でもありました。29年間でNFL優勝6回、負け越しシーズンはわずか3回。通算215勝106敗21分けで勝率.656。GMとしても才能の発掘に長け、自分を含めて7人をNFLの殿堂に送り込んでいます。

男の中の男といわれ、グリーンベイの象徴でもあったランボーですが、次第に傲慢なワンマンぶりが目に余るようになります。派手な生活、女性を次々に取替え、冬はグリーンベイでなくカリフォルニアで過ごすような彼に、グリーンベイ市民そしてチーム理事たちの見る目は冷たくなってきたのです。遠征先のホテルでは、選手と女性の取り合いになることもあったといいます。グリーンベイで生まれ育ったランボーでしたが、”Oh, Curly is gone Hollywood”とグリーンベイの人々は嘆きます。ランボーとその取り巻きは、チームを西海岸に移転しようとしているという噂もありました。

豪華な”Rockwood Lodge”をトレーニング施設として独断で購入するなどの放漫経営。さらにひどいことには、共同設立者のジョージ・カルフーン(広報担当)をいきなり解雇するという事件もありました。設立以来パッカーズそのものだったランボーにとって、「かまどの灰まで俺のもの」という意識もあったことでしょう。しかし、すでに何度も地元市民の助けによって危機を救われたパッカーズは、もう彼ひとりのものではなくなっていたのです。

1949年シーズンを2年連続の負け越しで終えたパッカーズ。'20年代や'30年代には一緒に金策に走り回ったカルフーンや弁護士クリフォードなどかつての仲間たちも、ついに独裁者を追放する気持ちを固めます。対抗しようとするランボーは、投資家を集めてチームを買収しようとしますが、理事会はもちろん否決。すったもんだの挙句、理事会はランボーに2年の契約延長をオファーしますが、権力闘争に敗れ最高権力者としての地位を失ったランボーは契約にサインせず、チームを去ることになりました。

彼はその後、シカゴ・カーディナルスのHC兼副社長を2年、そしてワシントン・レッドスキンズに移ってHCを2年つとめました。1957年に”New City Stadium”が完成した時には、彼はグリーンベイに姿を見せなかったようです。1959年には、パッカーズのGMとして返り咲こうと古巣に働きかけますが、理事会は若く無名のヴィンス・ロンバルディにHC兼GMの地位を与えることに。それでも1965年6月1日にランボーが67歳で亡くなると、人々は過去の軋轢を水に流し、グリーンベイ市は彼の功績を讃えてスタジアムを”Lambeau Field”と改名し、今に至っています。

ポスト・ランボー時代

1950年発行の株式1950年のパッカーズは、カーリー・ランボーの放漫経営もあって破産寸前だった財政を再建するため、三度目の株式発行に踏み切ります。約款が改定され、10,000株を発行できることになり、そして一人で所有できる数も制限されました。ウィスコンシン中の、そして全米に住むウィスコンシン出身の人たちが一株$5ドルのチーム株を買い求め、またたく間に$118,000ドルの資金が集まりました。これによってチームの財政は立ち直り、次に株式が発行されるのはずっと先、1997年のことです。

そして迎えた1950年シーズン、かつてのベアーズのスター、ジーン・ロンザーニ Gene Ronzani をヘッドコーチに迎え、初めて創立者ランボーのいないシーズンを戦うことになりました。しかし前年に2勝10敗まで落ち込んだチームを立て直すのは容易ではなく、2年連続で3勝9敗。1952年は盛り返して地区優勝を争いますが、シーズン最後の3連敗でけっきょく5割どまり。翌1953年シーズン終了を待たずにロンザーニHCは辞任しました。

1954年、ヘッドコーチがライル・ブラックバーンLisle Blackbourn に代わっても低迷は続きます。1955年だけはなんとか5割だったものの、他は全て負け越し、4年間で17勝31敗の成績を残して1957年のシーズン後に辞任しました。1958年には究極のナイスガイ、スクーター・マクリーンScooter McLean が指揮を執りますが、1勝10敗1分けで、わずか1年限りで辞任。甘いコーチのもとで選手の規律はガタガタになり、でしゃばりな理事たちがコーチの仕事に口を挟む、そのような最悪の時期でした。

10年にわたって低迷が続いたため、パッカーズのような小さなマーケットのチームは、時代遅れの過去の遺物、という見方がしだいに強くなりつつありました。しかしこのような見方も、次のヘッドコーチによって完全に払拭されることになります。

新スタジアム建設

低迷の続いた'50年代、パッカーズにとって最大の出来事は新スタジアムの建設だったと言っていいでしょう。ランボーの母校Green Bay East高校の隣にある本拠地シティ・スタジアム は老朽化し、25,000人に満たない収容人員も物足りません。ロッカールームの不備のため、アウェーチームの選手たちはホテルで着替えてからスタジアム入りしていました。他のNFLチームから不満が出始め、1955年にパッカーズはグリーンベイ市に新スタジアム建設の要望を伝えます。

パッカーズにも市側にもそんな資金があるわけではありませんから、建設費用は市債でまかなうことになりました。とはいっても市が借金するわけですから、市民の承認が必要です。住民投票への賛成を呼びかける運動には、なんと宿敵シカゴの御大ジョージ・ハラスまで駆けつけてくれました。その甲斐あって1956年の住民投票では圧倒的多数で可決され、グリーンベイ中心街の南西側、当時は農地(のち新興住宅地)だったエリアに新スタジアムが建設されることになりました。

ブルドーザーでボウル部分を削る 建設中の航空写真 こけら落としのプログラム

大都市と比べて安いコスト、しかもグリーンベイ市が水道・下水道・駐車場の工事を行い、ブラウン郡も格安で協力したこともあり、建設コストは$960,000で済みました。当初のキャパシティは32,150人。右下写真からも分かる通り、最初は南北エンドゾーン裏には大型スタンドがありませんでした。しかし、最初から増設をしやすい作りにしてあったため、その後も数回にわたって客席が増設されていくことになります。

スタジアムが完成したのは1957年シーズンの直前。9月29日の記念式典には当時のニクソン副大統領らも出席し、シカゴ・ベアーズ戦を観戦しました。試合は21-17でパッカーズが逆転勝ちし、こけら落としを勝利で飾りました。

前述したように、このスタジアムがランボー・フィールド Lambeau Fieldと改名されるのは、カーリー・ランボーが亡くなった1965年のことです。

記念パレード 試合前のセレモニー 完成直後の航空写真
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