<番外編>

ヴィンス・ロンバルディ エピソード集

■ 信仰

熱心なカトリックであったロンバルディは、「まず第一に神への信仰、二番目が家族、三番目がグリーンベイ・パッカーズだ」とつねづね選手たちに言い聞かせていました。しかし、熱が入りすぎるためか、たまにその順番を間違えることがあり、選手たちがそれをジョークのタネにする、ということもありました。ロンバルディは毎朝かかさず聖ウィリブロード教会のミサに出席し、それからオフィスに向かうのが日課でした。ワシントンに移った際もそれを続け、自分のスケジュールに合わせて教会のミサを7時半から7時に変えてくれと頼みますが、さすがにそれは断られたといいます。

彼が熱心に教会に通い、祈りを欠かさなかった気持ちを、息子のヴィンセントは以下のように分析しています。・・・自分は激情をコントロールできない。かんしゃくを起こし、人々の気分を害してしまう。そのことを謝らなければならない。しかし同時に、このような自分の気性が有利に働き、目標を達成することに役立っている。自分は完璧でないと知っている・・・。だからこそ、その釣り合いをとるために、余計に熱心に祈ったのではないかと。

■ 規律

ロンバルディは、就任そうそうの1959年のキャンプで、選手たちに衝撃を与えます。夜11時の就寝時間を守っているか見回りに来た彼は、まだソックスと短パンをはいたままベッドの端に腰掛けていたFBジム・テイラーを見とがめ、「ジミー、今は何時だ」 「11時です、sir」 「君は11時にはベッドに入っているはずだな」 「Yes, sir」 「ジミー、罰金25ドルだ」。 見ていたOGジェリー・クレイマーは口をあんぐりと空け、「ああ、このヒトは本気だ」と思い知ります。

束縛を嫌う自由な魂の持ち主、WRマックス・マギーは門限破りの常習犯。なんとかコーチの目をかいくぐって夜遊びに出かけていきます。見つかるたびに罰金は跳ね上がり、50ドル、100ドル、そしてついに500ドル。怒りが頂点に達したロンバルディはマギーに向かって、「次に捕まえたら1000ドルだぞ!」と叫びます。しかしそこでふと笑って、「しかしなマックス、もし1000ドルに値するものがそこにあるなら、私にも声をかけて一緒に連れてってくれんか」

■ 選手の扱い

これほど規律にやかましいロンバルディでありながら、彼が最も愛した教え子は、遊び人タイプのWRマックス・マギーとRBポール・ホーナングだったと言われます。レッドスキンズのHCに就任する際、プレーボーイとしても名高いQBソニー・ジャーゲンセンとの折り合いを心配する声がありました。ジャーゲンセン本人も恐れおののき、友人のホーナングに相談します。しかしホーナングは「大丈夫、きっと彼を好きになるよ」。 パッカーズ時代にホーナングらの扱いに慣れていたロンバルディは、ジャーゲンセンを大人として扱い、立派なチームリーダーへと意識改革することに成功しました。

■ "What the hell is going on out there ?"

選手がヘマをすると、きまって彼はフィールドに向かってこう怒鳴りました。ファンブルでもした選手は、サイドラインに戻るのがさぞかしつらかったことでしょう。腹の底から怒鳴るような彼のこの声は多くのフィルムに残っています。

選手を容赦なく叱責するロンバルディでしたが、選手の個性をよく把握し、時と場合によって上手く使い分ける心理学者でもありました。例えば、QBのリーダーシップを傷つけるような叱り方はチームの前では決してせず、また気の弱い選手、カリカリした方が力が発揮できる選手など、各選手をフェアに扱いながらも、どう刺激すれば最高の能力を引き出すことができるかを心得ていました。連勝に奢るチームに雷を落とすいっぽう、連敗に沈むチームを巧みに気分転換させることもありました。

かつてはロンバルディのやり方に反発してチームを去ったセンターのビル・カリー。何年か経って、ばったりロンバルディに出くわした彼は、当然のことながら冷淡な扱いを予測していました。しかしロンバルディは、親身になって話を聞き、家を出て成功した息子のようにかつての教え子を扱いました。チームはファミリーだ、というロンバルディの教えは決してうわべだけのものでなかったのだと、自分の過ちに気付いたカリーは、のちにロンバルディの死の床を訪れて、心からの感謝を伝えたといいます。

ロンバルディがレッドスキンズに移ったとき、そこにはレイ・マクドナルドというランニングバックがいました。チームの誰もが、彼がゲイだと知っていましたが、ロンバルディはそのことに触れたりからかったりすることを固く禁じました。「そんなことをしたヤツはこのチームから放り出す」

■ 人種問題

まだ黒人選手を採用したがらないチームも多かったこの時代、ロンバルディはそのような差別を全くしないヘッドコーチでした。FSウィリー・ウッドは、「彼ほどフェアな人間に会ったことがない」と語り、またDTヘンリー・ジョーダンは、「彼は俺たちを全て平等に扱った・・・犬のように」と有名なジョークを残しています。ロンバルディが1959年にやってきたとき、パッカーズの黒人選手はわずか1人。彼が去るときには14人になっていました。これから述べるように、人種問題への断固とした態度は、人間としてのロンバルディの最も輝かしい一面と言えるでしょう。

ロンバルディは就任一年目に選手たちを集め、「もし、ニガーだのなんだのという言葉を耳にしたら、それが誰であろうと、私との関係はおしまいだと思え。何であれ人種偏見のある者には、決してプレーはさせない」と言い渡します。

南部と比べれば人種対立は激しくなかった(というより黒人人口そのものが非常に少なく、軋轢が起こる余地がありませんでした)ものの、グリーンベイとて当時の黒人選手の暮らしやすい土地ではありませんでした。就任1年目、ロンバルディは、家が借りられずホテル住まいをする選手のために密かに宿賃を払ってやったり、キャンプの間でも床屋へ行く(黒人の髪を手入れできる床屋がグリーンベイにはいなかったからです)ためにミルウォーキーやシカゴまで遠出させてやったりしました。

ロンバルディも就任2年目になって権威を確立すると、さらに積極的に黒人選手の問題に取り組むようになります。彼はグリーンベイじゅうのレストランや酒場に通達を出し、「もし黒人選手の入店を拒む店があれば、そこにはチーム全員を出入りさせない」と宣言しました。前年にニューオーリンズのホテルで黒人選手だけが締め出された屈辱を繰り返すまいと、ノースカロライナ遠征の際には、陸軍の駐屯地に全員で宿泊したりしました。

そのノースカロライナ遠征の際に、1人でぶらっとレストランに立ち寄ったロンバルディは、もともと浅黒い肌のうえにキャンプ生活で真っ黒に日焼けしていたために、黒人と間違われて入店を拒否されるという事件がありました。この話を聞いた黒人選手たちは、ロンバルディのことを”Secret brother”と内緒で呼んではクスクス笑ったといいます。

FSウィリー・ウッドはUSC時代にQBとして活躍(ラン主体でしたが)しながらも、黒人でしかも背が低いためにQBとしては評価されず、1960年のドラフトからは漏れてしまいました。彼は黒人にもチャンスをくれそうな、パッカーズ、ジャイアンツ、49ersの3チームに手紙を書き、QBでなくセーフティとしてトライアウトを受けさせてくれと訴えます。唯一反応があったのがパッカーズ。彼の才能を認めたロンバルディは、ロースターの最後の一員として彼を迎え入れました。

ウッドは、ルーキーの年に、本職のFSでなくCBとして代役出場を強いられた試合がありました。ボルチモアでQBユナイタスに狙い撃ちされ大きな敗因となった彼は、「どっちみち放り出されるんだから、このまま実家に近い東海岸に残ってグリーンベイに帰らない方がいいぜ」と先輩たちにからかわれます。そうかもしれない、と沈みこんでいたウッドの肩をロンバルディは抱き寄せ、「連中の言うことを信じたんじゃないだろうな。おまえはどこへも行かせはしない。ああしてからかう連中は、必ず同じことが自分の身に起きるのだ。私がこのチームにいる限り、おまえはここに残る」と言い聞かせます。この予言はまさにその通りになりました。コーチの言葉に自信を取り戻した彼は2年目からスターターとなり、1971年に引退するまでパッカーズで11年間プレーしてプロボウル出場8回、後に殿堂入りを果たしています。

ディフェンスラインの中心といえるのがDEウィリー・デイヴィス。サック数がカウントされない時代なので記録が残っていませんが、リーグを代表するパスラッシャーでした。彼はロンバルディと非常に親密な関係を築き、2人で哲学談義にふけることも多かったといいます。イタリア系であることでからかわれたり、白人の中でも一段下に見られた嫌な経験から、ロンバルディは人種偏見を憎んだのだろうとデイヴィスは振り返っています。デイヴィスは引退後、ビジネスの世界でも大きな成功を収めましたが、何かいいことが起きるたび、「きっとコーチも喜ぶだろう」と思うのが常だったといいます。

名LBデイヴ・ロビンソンはロンバルディの死に、自分の父を亡くしたときと同じほどの強いショックを受けたといいます。「白人の葬儀で涙を流したのはこれが初めてだ」

■ 労使対立

ロンバルディがGMに退いた1968年、待遇改善を求めるNFL選手会とオーナー側の対立は激化し、選手会側はストを予告、オーナー側はロックアウトで対抗します。ロンバルディはパッカーズの代表としてオーナー陣営に加わり、自然と座長格となって交渉に当たります。選手会側の弁護士は昔気質のコーチをわざと無礼な言葉で挑発し、時には怒鳴りあいにも発展しました。しかし彼は、選手会が選手とコーチの間に割って入るのを嫌ったのと同様に、オーナーたちが選手たちを分裂させようとすることを嫌ったといいます。

7月14日についに交渉が合意に至ったとき、選手会代表の1人だったパッカーズのLBデイヴ・ロビンソンに対し、彼は”Good job.”とねぎらいの言葉をかけました。「ボスに対してあのように楯突いたら、自分の契約交渉で困るのではないか?」という見方がグリーンベイにはありましたが、ボスは決して根に持つようなことはなく、1時間ほどでロビンソンの契約更改交渉は終わりました。

ロンバルディが死の床にあった1970年夏、労使紛争は再び燃え上がり、ロックアウトへと発展します。彼は反逆する若い世代(ベトナム反戦運動が最も盛り上がった時期にワシントンにいたわけです)の身勝手さを罵り、組合を嫌い、労使紛争を憎んでいましたが、個々の選手を心底愛していました。選手たちも、時には反発しながらも、彼を愛さずにはいられませんでした。労使対立の真っただ中、彼の病床に大きな花束が届きます。カードにはNFL選手会、とありました。"You are a great coach and a great individual to all of us."

この労使紛争のさなか、何人かの有力選手は嫌気がさし、組合から離れようとする動きがありました。それを押しとどめたのがロンバルディの愛弟子バート・スターでした。もっとも保守的なタイプと見られていた彼が組合の団結を主張した理由を、彼は仲間たちにこう説明したといいます。「2年前、コーチ・ロンバルディが電話をかけてきてこう言った。”私は組合が嫌いだし、選手会が嫌いだ。しかしもし私がパッカーズのクォーターバックであったら、きっと組合でもリーダーであろうとするだろう”」。 ロンバルディはチームの団結を誰よりも重視し、ストのさなかであってさえ、選手たちの団結を願っていました。

■ ”Winning isn't the everything. It's the only thing.

どういうわけか、ロンバルディ哲学として最も有名になってしまったこの言葉。選手を啓発するために彼がロッカールームに張り出した言葉の一つであったことは確かですが、これが彼の哲学の中心にあったなどというのは明らかに誤りです。矛盾に満ちた内面を彼が抱えていたことの例証とは言えるかもしれませんが。

彼の勝利への執着心が極めて強かったのは疑問の余地がありません。しかし、悪しき勝利至上主義とは、明らかに一線を画していました。ルールの隙を突くようなプレーや、汚いプレーを非常に嫌い、審判にはバレていなくても、そのようなダーティなプレーを見つけるとその選手は引っ込めてしまいました。地区優勝を決めた後の消化試合であっても、死力を尽くしてプレーすることを選手に求め、その上で敗れて初めて、彼は満足したといいます。逆に試合には勝っても、内容がだらしなければ、容赦なく叱責の声を浴びせました。試合に勝って引き上げる時、「どっちが勝った?」と選手たちは顔を見合わせるのが常でした。試合に勝つのはじっさい当たり前でしたが、ロンバルディが価値を認める勝利であったかは、また別の話だったからです。

あのアイスボウルの日、ランボーフィールドに埋設されたヒーターは故障し、フィールドは固く凍りついていてしまいます。「向こうは、私がわざとやったと思うに違いない」とロンバルディは嘆きました。勝利のためには手段を選ばない、と思われることを彼は非常に嫌っていました。そのような歪んだロンバルディ像を描いた記事が雑誌に掲載されたことがあり、彼にはそれが大きなショックでした。そうしたいわれのない非難に対して精神が磨耗していったことも、辞任の背景にはあったようです。

名著"When Pride Still Mattered"の中で著者デヴィッド・マラニスが検証しているように、上記の言葉は、UCLAやヴァンダービルト大でコーチをした、ヘンリー”Red”サンダースという人物が、1950年ごろに冗談めかして言ったのが最初でした。実際彼は手段を選ばない選手集めでトラブルに陥ったように、悪しき勝利第一主義の典型で、この言葉にふさわしい人物だったようです。さほど深い哲学的な意味があるとも思えず、「勝たなきゃ何も始まらないよ」ぐらいのものではないでしょうか。

この言葉を伝え聞いた脚本家が、ジョン・ウェインの映画「勝負に賭ける男」 (1953年)の中で、コーチの11歳の娘の台詞として使いました。さらに、ロンバルディよりも早く、1961年のチャージャーズのイヤーブックにも、シド・ギリアムHCの言葉として掲載されているとのこと。ロンバルディはこのギリアムHCの言葉を読んだのか、ジョン・ウェインの映画を見たのでしょう。

この言葉は、彼を誤解する人々からは悪しき勝利至上主義として非難され、また彼を信奉する人々からも誤解されたと言えます。1972年の大統領選で、再選を目指すニクソン大統領の選挙本部には、この言葉を少し変えて、 "Winning in Politics isn't the everything. It's the only thing." という標語が掲げられていました。そのニクソンがどのようにして大統領職を失ったかはご存知の通り。ロンバルディが生きていたらどんなに怒り狂ったことでしょう。繰り返しになりますが、ロンバルディは勝利へのあくなき執念を選手に植え付けるためにこの言葉を援用したのであり、彼の本来の主義とはかけ離れたものでした。

■ 家族

信仰と家庭を大事にするのが信条だったロンバルディでしたが、家庭生活はややギクシャクとしたものでした。彼自身、フットボールへの情熱のために家庭を二の次にすることは避けられません。妻マリーは夫を非常に愛し、仲の良い夫婦関係ではありましたが、彼女はたびたび鬱病に苦しみ、飲酒癖、自殺未遂など、ロンバルディの悩みのタネでした。偉大な名コーチの妻という役割を満喫していたマリーは、ロンバルディが辞任して次第にスポットライトから遠ざかることに落ち込みます。ロンバルディが華やかな首都でのコーチ復帰を選んだのは、そんな彼女を元気づけるため、ということも一因としてありました。

息子ヴィンセントは、いくら努力しても厳しい父親から認められないことに苦しみ、最後まで父子は親子らしい会話を交わすことができなかったといいます。(それでもロンバルディの晩年には、弁護士となった息子を誇りに思い、愛情を十分に伝えてからこの世を去ったようです)

大学卒業後、一度は法学校に通ったロンバルディでしたが、1年で断念したようです(弁護士の資格を持っているというのはただの伝説)。息子ヴィンセントが、ミネソタで苦労しながらもなんとか頑張って弁護士の資格を取ったのは、せめてひとつだけでも父を超えたいという願望の現われだったのかもしれません。

娘のスーザンについては、ロンバルディの娘の項を参照のこと。

選手の妻たちはチームの成功にとっても重要だと考えていたロンバルディは、優勝するたびに、選手の奥方全員になにかプレゼントを贈りました。(右の写真は1961年の優勝時、奥方たちに毛皮のストールをプレゼントしたロンバルディ)

■ その他

唯一の趣味はゴルフ。芸術にはさほど関心がありませんでしたが、イタリア系とあってオペラは好きだったようです。「父は、自分では歌が上手いと思っていた」と娘のスーザン。

彼の不思議な癖は、首の長い選手を好まないということでした。そのために、後に殿堂入りする名セーフティ、ポール・クラウスをドラフトで獲り損ねてしまう、という失敗もありました。

フォーダム大時代からの友人に、ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー、ウェリントン・マラがいます。家族ぐるみの付き合いは終生変わることはありませんでした。

ロンバルディがフィルム・スタディの鬼となったのは、陸軍士官学校で名将アール・ブレイクHCの下でアシスタントを務めた頃からのこと。ブレイクHCはこの分野の先駆者の1人で、部下のロンバルディに、準備の大切さを教え込みました。

同じく陸軍士官学校のアシスタント時代、ロンバルディはダグラス・マッカーサー陸軍大将(朝鮮戦争の総司令官を解任され帰国していた)の知遇を得ます。マッカーサーはウェストポイントのかつての校長であり、フットボールへの情熱は強烈なものがありました。マッカーサーの部屋で2人でゲームフィルムを見ることもしばしばだったといいます。

1959年、ロンバルディのヘッドコーチ就任に大きく貢献したのが、パッカーズの若く優秀な人事部長ジャック・ヴァイニシ Jack Vainisi という人物でした。彼は早いうちからロンバルディに目を付け、リーグ中の有力コーチや陸軍士官学校のブレイクHCなどに評判を聞いて回ります。彼らのほぼ一致した見解が、「NFL最高のアシスタント。ヘッドコーチを務める用意はできている」というものでした。ヴァイニシはオレニチャック社長の考えを巧みに誘導し、ロンバルディを最有力候補とすることに成功します。ロンバルディが就任要請の受諾にあたって、「決して理事たちが口を出さないこと」を条件にしたのは、ヴァイニシのアドバイスがあったからだといいます。グリーンベイの有力者たちがことあるごとにチームに介入するようでは、チーム再建はおぼつかないとヴァイニシは痛感していたのでした。

しかし1960年、そのヴァイニシは心臓病のためにわずか33歳の若さでこの世を去ります。彼はロンバルディをグリーンベイに導いただけでなく、黄金期を形成した多くの中心選手を1950年代後半に獲得した功労者でもありました。選手を見る目に優れ、全米を飛び回って人材のネットワークを築いていたとびきりのスカウトを失ったことは、GMを兼任するロンバルディにとって大きな痛手だったことでしょう。

Quotes

死後30年以上たった今でも、アメリカじゅうのコーチ、管理職、重役たちの部屋に、彼の残した数々の名文句が額にして飾られています。学校の教壇で、スポーツチームのロッカールームで、講演会の壇上で、彼の言葉がアメリカのどこかで引用されない日はないと言ってもいいでしょう。 以下、ロンバルディ名言集からごく一部をランダムで紹介します。(ヴィンス・ロンバルディ公式サイトも参照のこと)

"I firmly believe that any man's finest hour is the moment when he has worked his heart out in a good cause and lies exhausted on the field of battle - victorious."

"The difference between a successful person and others is not a lack of strength, not a lack of knowledge, but rather in a lack of will."

"To achieve success, whatever the job we have, we must pay a price."

"Leaders are made, they are not born. They are made by hard effort, which is the price which all of us must pay to achieve any goal that is worthwhile."

"The difference between men is in energy, in the strong will, in the settled purpose and in the invincible determination."

"In great attempts, it is glorious even to fail."

"Dancing is a contact sport, Football is a hitting sport."

"Winning is not a sometime thing: it's an all the time thing. You don't win once in a while; you don't do the right thing once in a while; you do them right all the time. Winning is a habit. Unfortunately, so is losing."

"I've never known a man worth his salt who in the long run, deep down in his heart, didn't appreciate the grind, the discipline. There is something good in men that really yearns for discipline."

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