グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2008年3月29日

Brett Favre: The Beginning

「僕らが育ったのは人口が少ない地域で、隣の家がすぐ横にあるわけじゃない。友達に声をかけて15分後に公園で遊ぼう、なんて無理さ。だから兄弟で遊ぶしかなかった」とブレット・ファーヴの弟ジェフは語る。負けず嫌いのファーヴ三兄弟は、常に全力で投げ、走り、石をぶつけ、タックルした。そして夕方になると、泥だらけで体中の傷から血を流しながら食卓に駆け戻ってきた。互いをからかい、ホームランやタッチダウンの数を自慢しながら。

次男ブレットがリトルリーグでピッチャーをしていたとき、剛速球がバッターのヘルメットを直撃したことがあった。次の打者は、打席に向かう途中で泣き出してしまった。また小学校の教師だったビリー・レイ・デボーは、5年生のブレットがフットボールで50ydsのパスを軽々と投げているのを見たという。「キャッチした子は、まるで弾丸のようだと言っていた」

後にNFLで伝説を作ることになるブレット・ファーヴだが、高校卒業まではフットボールよりも野球の方で力を発揮していた(その理由は明日)。すでに8年生(日本で言えば中学2年)の時点で高校生に混じって地区チームのレギュラーとなり、5年間フルに活躍したのだ。「8年生の時点で、チームでは僕に次ぐ実力だったよ」と長男スコットは語っている。フットボールチームと同様、こちらも父アーヴィン(2003年死去)が監督だった。

ある試合で彼は、第1打席でツーベース、第2打席でホームランを放ち、満塁で回ってきた第3打席で相手監督は敬遠を命じた。審判をしていたマイク・ロスは当時を振り返って言う。「その打席でバッテリーは3球続けて外にはずした。するとブレットが私を振り返って、『僕が敬遠を許すと思う?』 と言うので、『他に選択肢はないだろ』 と私は言ったんだ。そして4球目、彼は外の球に思い切り腕を伸ばし、ライトオーバーのツーベースを放ったんだ」

上級生になったブレットはショートを守り、セカンドはマット・ロートンというこちらも優秀な選手だった。「僕より2学年上のブレットは素晴らしい万能選手で、彼が高校を出るとき、MLBからドラフトされなかったので僕は心配になった。『もしこの人がメジャーリーグでプレーできないなら、この地域でプレーできる選手なんて1人もいないぞ』ってね。監督のアーヴのところに行って聞くと、『息子はサザンミシシッピ大でフットボールをするから』 とMLBのスカウトたちに断りを入れていたそうだ」

「彼は体がでかく長打力があった。それにQBとしてのプレーから想像できるように、キャノンアームの持ち主だった。動きもすごく速く、優秀な野球選手になるための素質はすべて持っていたよ。メジャーリーグでもきっと成功したに違いない」とマット・ロートンは語る。実際ロートンはメジャーリーグで外野手として長く活躍し(スタッツ)、二度もオールスターに選ばれている。

高校のフットボールチームでは、ファーヴ三兄弟はみなクォーターバックをプレーした。彼らが優れたアスリートだということもあるが、父アーヴィンがヘッドコーチをしていたからでもある。ひいきをしたのではなく、息子たちなら必ず練習に出てくるからだ。アシスタントコーチだったロッキー・ゴーディンは言う。「チームに18人か20人しかいない時期もあったから、もしQBが欠席だと、ろくに練習できなくなってしまう。『彼がヘッドコーチだから息子たちをQBにするのだ』 とアーヴィンが非難されたこともあった。しかし、息子たちならサボることはできないから、というアーヴィンの説明は筋が通っていた」

アーヴィン・ファーヴ、通称ビッグ・アーヴは、彼自身もサザンミシシッピ大の野球で活躍したアスリートだった。コーチとしては非常に厳格で、融通の利かない古いタイプ。息子の誰かがケガをしても、決してフィールドに駆け下りてくるようなことはするな、とつねづね妻ボニータに言い聞かせていた。「彼は海兵隊出身じゃないかと私はいつも思っていた。野太い声で角刈り。訓練係の鬼軍曹を思い出させる」と語るのは、昔からファーヴ家と付き合っているスティーヴ・ハース。

そのスティーヴ・ハースもビッグ・アーヴの君臨するフットボール部に入ったが、わずか1日しかもたなかった。「気温は95度(摂氏35℃)でも、走って走って走らされた。明日はランニングが減るのかとアーヴに聞いたら、『たぶん明日はもっと多いだろう』 と言われた。それで決心がついたよ」とハースは笑っている。三男ジェフは、「親父は誰に対しても厳しかったから、たくさんの選手をチームから追い払うことになった。たわ言には絶対我慢しなかった。それはたしかだね」

時には厳しすぎることもあったが、ビッグ・アーヴの伝説的タフネスがブレットに大きな影響を与えたのは間違いない。ブレットの親友の1人、クラーク・ハネガンは言う。「ある日アーヴが屋根の上で何か作業をしていたら、転落して頭からコンクリートの地面に突っ込んだ。放心状態でふらふら立ち上がると、血が顔面に流れ落ちている。それでもアーヴは病院に行かなかった。ほんとうだ、私はこの目で見たんだ。ブレットだって、もしケガをしたら氷を当てとけばそれで大丈夫、と思っている。それがアーヴの専売特許だったからね。脚が折れた? 氷でも当てときゃ大丈夫。ブレットのそうした部分のルーツはここにあるんだ」

高校時代のブレット・ファーヴについて、アシスタントコーチだったロッキー・ゴーディン。「ブレットの将来を予想できたか? とんでもない。たしかに彼が卒業するときには、『コンペティターとして、よきリーダーとして、君はわが校史上最高のクォーターバックだった』 と賛辞を送ったよ。しかし正確性の点では最高のQBとは言えなかった。パスをあまり投げないオフェンスではあったが、彼はとてもミスが多かった」

高校2年(日本で言うと高校1年)のフットボールシーズン、ブレットは伝染性単核球症のために全く試合に出られなかった。試合のある金曜になると必ず母ボニータに頼んで、医者に行って血液検査を受けた。そのたびに、まだプレーはできんよ、と医者に言われてがっかりして帰った。ボニータによると、フットボールの練習中に水のボトルを仲間と一緒に使ったせいで感染したのだとブレットは信じていて、今にいたるまで、他人のグラスからは決して飲もうとしないという。

病気では仕方がないので、二軍チームの連中を相手にパスを投げた。従弟のチャド・ファーヴは剛速球の被害に遭った下級生の1人だ。しばらくブレットのパスを受けたあとは、ショルダーパッドのレースの形に、胸に縦に二本線の痕が残ってしまったという。「二軍チームの僕ら数人が遊び半分でやっているところにブレットがきた。ディープに行け、ディープに行け、と叫ぶので、僕は走って走って走り続けた。一方のエンドゾーンから彼が投げたパスを、僕がなんとかキャッチすると、勢いで数歩走ったところがエンドゾーンだった。だから約90yds投げたことになる。大砲としか言いようがなかった」

ファーヴ兄弟の一員のようにして育った従兄のデヴィッド・ピーターソンが、当時のブレットのプレーぶりを振り返っている。「誰かが50yds先でワイドオープンになり、別のレシーバーがミドルで密着カバーされていたとする。ブレットはどちらに投げると思う? ディフェンスが16インチ(40cm)しか離れていないヤツの方に投げ込むんだ。今でもちょっとそんな感じだと思わないか?」

1970年代の初めにハンコック・ノース・セントラル高校のヘッドコーチとなったアーヴィン・ファーヴは、アラバマ大の伝説的ヘッドコーチ、ベア・ブライアントのコーチング・クリニックに出席したことがあった。そして、当時猛威をふるっていたアラバマ大のウィッシュボーン・オフェンスを自分のチームにも取り入れた。ビッグ・アーヴはベア・ブライアントと同じように、パスを軽視し、どうしても必要でない限り投げたがらなかった。息子たちは素晴らしい強肩に恵まれているのに、それに合わせたオフェンスを作ろうとはしなかった。

「 『お前たちならもっと投げれるだろう。なぜ投げない?』って人々からよく言われたものだ。親父はそんなことはしなかった。自分のオフェンスを信じ、息子たちの能力を見せ付けるようなことはしなかった」と三男スコットは振り返る。後にNFLで伝説を作る次男ブレットでさえ、1試合で5回以上投げることは稀だったのだ。彼に奨学金をオファーする大学がサザンミシシッピ大しかなかったのも、それが一番大きな理由だった。

ブレットのためにアーヴィンが母校サザンミシシッピ大に頼み、マーク・マクヘイルOLコーチが試合を観に来たことがある。その試合でブレットはチームを勝利に導いたものの、例によってパスは数回しか投げさせてもらえなかった。これでは大学に推薦できないと渋るマクヘイルに対し、来週来てくれれば必ずパスを増やしたオフェンスをするから、とアーヴィンは再度頼み込んだ。マクヘイルが翌週も観に行くと、ブレットは6回か7回パスを投げた。「アーヴにしてみれば、今日は投げまくった、という気持ちだったろうね」とマクヘイルは笑う。

またある日、ミシシッピ州立大でQBをプレーしていた長男スコットが里帰りして、サイドラインで観戦したことがあった。大量リードしたので、「なあ父さん、もう少しぐらいブレットに投げさせたら?」と気安く話しかけた。するとビッグ・アーヴは振り返って、「誰がこのチームをコーチしてると思ってるんだ? お前はそのケツを上げてスタンドに行って母さんと見てろ」と怒鳴りつけた。スコットは仕方なく弟ブレットに、「まあ、お前はお前で頑張れ」とでも言うしかなかった。

フットボールシーズンが終わると、アシスタントコーチのロッキー・ゴーディンの監督下で、ブレットたちは週に1回ほどタッチフットボールをプレーした。「一方をブレットが率い、もう一方を私が率いた。まるでスーパーボウルのような激しい争いになったものだ。雨が降ろうと寒くなろうと関係ない。どっちが勝ったか、いつも口論になった。ブレット最大の特徴、それは競争心の強さだった」とゴーディンは語る。

ブレットはオフシーズンのトレーニングにも極めて熱心だった。高校選手は1年中トレーニングなどしない時代だったが、彼は週に3回か4回はウェイトを上げていた。パスを投げる相手がいなければ、恋人のディアナ・タインズを動員した。今のファーヴ夫人だ。「女の子相手にブレットがあまりに強く投げるので、アーヴィンが家から飛び出して叱ったものでした。でもディアナは弱さを認めず、なんとか捕ろうとしていたわね」と母ボニータ。

ブレットは今でもしばしば里帰りしてくるが、NFLでの活躍を鼻にかけて大物ぶるようなことは全くない、と地元の人々は口を揃えている。兄弟や親友たちと一緒になってフットボールを投げ、従兄のデヴィッド・ピーターソンの指を痛めつけて大喜びしたりしている。近くでバーを経営しているスティーヴ・ハースは言う。「ブレットは少しも変わっていない。高校時代の思い出の中の彼とまったく同じだよ。当時もただのブレットだったし、今だってただのブレットさ」

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