グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2004年3月15日

チェスター・マーコルの物語

1964年。ポーランド共産党員の父は、昼食のために家に帰ってくると寝室に行き、銃を自分の頭に向けて引き金を引いた。Czeslaw Boleslaw Marcol はそのとき15歳。母アンナは4人の子供を育てるため、家族を連れてアメリカに渡ることを決意した。アンナの両親と兄が、ミシガン州イマレー・シティの近くの農場で働いていたからだ。

アメリカに渡った少年は、孤独で、困惑し、つらい思いをしていた。彼には英語が全く話せなかった。父を失い、友人を失い、故郷を失った。夏の焼けるような日差しの下で、肥料にまみれながらキュウリやレタスの収穫をするのが、たまらなく嫌だった。高校の宿題の文章を読むことができず、苛立ちのあまり泣き叫ぶこともあった。

ある日、体育の授業が雨のために体育館に移され、サッカーをすることになった。マーコルはここで初めて笑顔を見せた。このスポーツなら知っている。知っているどころか、彼はポーランドのジュニア・ナショナル・チームのゴールキーパーだったのだ。彼はしなやかで、猫のようにすばしっこかった。ペナルティ・キックの機会に彼が選ばれて蹴ることになり、ジョン・ローワン先生が相手キーパーだった。マーコルはボールをセットすると、何ヶ月もの鬱憤を込めて、思いっきり脚を振り抜いた。ボールは先生の耳のすぐそばを通り抜け、手を上げる暇もないほどだった。かろうじて振り向くと、壁から跳ね返ってきたボールを顔面に受け、先生の鼻から血が吹き出した。

翌日、ローワン先生がマーコルを学校の裏のフィールドに連れ出し、へんな形をしたボールを取り出した。ラグビー・ボールだとマーコルは思った。先生はボールをティーの上に置き、ゴールポストを指差した。マーコルは理解した。30ヤードのフィールドゴールを、サッカースタイルの蹴り方で成功させた。先生が40ヤード地点にセットすると、それも成功。50ヤード。55ヤード。ローワン先生と他の男たちが興奮して話し合っている。マーコルの従姉妹が、「アメリカンフットボールをプレーしてほしいんだって」 と通訳した。「アメリカンフットボール? 頭がおかしいんじゃないか?」

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スポーツだけが彼の鬱憤のはけ口だった。キック力だけでなく運動能力全般に優れた彼は、すぐに頭角を現した。デビュー戦でイマレー・シティ高校を9-7の勝利に導き、ワイドレシーバーやリターナーも兼ねるようになった。祖父はこの馬鹿げたスポーツを全く理解しなかったが、チームの仲間が、彼を農場から連れ出してくれた。しかし練習のあと、祖父の命令で家族の誰も迎えに来てくれず、何マイルも、時には雪の中を歩いて帰らなければならなかった。しかしマーコルは気にしなかった。いまだに英語がわからないポーランド移民でも、彼には神から授かった脚があるのだ。

ヒルズデール大に進んだ彼は、4年続けてNAIAのオール・アメリカンに選ばれた。1969年のフェアマウント大戦では、62ヤードのFGを成功させた。ある試合では、77ヤードのFGを蹴ることをコーチが指示した。しかしボールはわずかにクロスバーの下。「審判は、"これが73か75ヤードなら成功だったろう"と言ってくれた」

過去4年間でFG成功率が44.5%と、キッカーに悩まされていたグリーンベイ・パッカーズが、1972年のドラフト2巡でマーコルを指名した。彼は大学のころから、(移民によくあるように)名前をシンプルにし、Chester Marcol と名乗るようになっていた。ルーキーシーズン、チェスターは自分が特別なキッカーであることを次々と証明していった。開幕戦で4本のFGを決めて26-0でブラウンズを破ったのを皮切りに、シーズン合計で33回のFG成功。これはいまでもチーム記録だ。キックオフ75回のうちタッチバックが29回。残り46回のリターン平均はわずか20.2ヤード。

「1935年のドン・ハトソン(殿堂入りレシーバー)が一年目から大きなインパクトを与えたと言っても、マーコルと比べたらどうかわからないね」とパッカーズの"Team Historian"のリー・レメルは語る。マーコルはNFL1位の128得点を記録し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーとオール・プロにも選ばれた。パッカーズは前年の4勝8敗2分から躍進して10勝4敗で地区優勝を飾った。チェスター・マーコルのファンクラブができ、ミルウォーキーのポーランド系移民のコミュニティの人気者になった。わずか7年前に初めてアメリカンフットボールに触れた23歳のポーランド青年が、ウィスコンシン全体から愛されるようになった。

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成功の影で、彼の心には大きな穴がぽっかり空いたままだった。父を失った悲しみを自分の内側に閉じ込めた彼は、気難しく、常に身構えていて、とても怒りっぽかった。完全主義者で、常により完璧なものを自分に求めた。「3本、4本とFGを決めても、1本外してしまうと、家に帰ってから4時か5時まで眠れないんだ。キッチンのテーブルに座って、ゲーム全体を何度も何度も思い返した」

クリックすると拡大します今でも語り草となっている試合は、1980年9月7日のベアーズ戦だ。6-6の同点で迎えた延長戦、QBリン・ディッキーからWRジェームズ・ロフトンへの32ヤードパスで、35ヤードのFGが用意された。しかしベアーズのDTペイジがジャンプし、マーコルが蹴ったボールはペイジのフェイスマスクにヒットしてしまった。次の瞬間、ランボーフィールドの54,381人の観客は目を疑った。真正面に跳ね返ってきたボールをマーコルがキャッチし、ゴール左隅に向かって突っ走ったのだ。中央に密集していたベアーズ選手は彼に触れることもできず、タッチダウン。12-6。彼は歓喜の渦に包まれ、英雄になった。彼にとって人生最高の時だったかもしれない。

この試合の数週間前から、マーコルはコカインを常用するようになっていた。すでにアルコール依存の問題を抱えていた彼が、コカインに溺れるのに時間はかからなかった。「コカインを使い始めると、全てが砕け散ってしまった。自分ではちょっとした気晴らしでやっているつもりだったが、少し経つうちに大量に欲しがるようになってしまった」とマーコルは振り返る。彼は自分が大きなトラブルに落ち込んでいくのを認識していたが、それを認めて助けを求めるのが怖かった。

最初の妻バーバラとは、大喧嘩を繰り返したあげく離婚した。「あなたはお父さんとまるで同じよ!」とバーバラは叫んだ。アルコール依存症だった父が自殺した時には涙も流さず、感情を押さえ込んできたマーコルだったが、妻のその言葉に、グラスを暖炉に投げつけた。「私は全てを内側に閉じ込めてきた。だってどうやって人に話せる? 私にできるのは身を守ることだった。私は全ての人に対して腹を立てていた」

劇的な勝利のしばらくあと、マーコルの牧師が、彼の家庭の問題や薬物の問題を知っているのか、とパッカーズのコーチに尋ねた。10月8日、バート・スターHCはマーコルを解雇し、別のキッカーと契約した。表向きの解雇理由は、キックオフの距離に不満があるから、ということだった。本当の理由は、彼の生活が完全に制御不能になっていたからだ。

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フットボールをやめてから、彼は何度もクスリや酒をやめようとし、その度にぶり返した。リハビリ施設にも入り、いったんはきれいな体になったが、それも長くは続かなかった。「恥や罪悪感、内側から腐っていくような感覚、完全に失敗してしまったような気持ち。それでも自分を止められない」 「これは病気なのだ。いまだにそれを理解できない人がいる。彼らの多くが、"全ては意思の力だ"と言う。私は彼らに、"次に下痢になったとき、自分の意思の力がいかに無力かがわかるさ"と言ってやるんだ」

そして、1986年が彼にとってどん底の年になった。酔ったマーコルは、バッテリー液を飲んで自殺を図ったのだ。これで食道をひどく傷めた彼は、今でも年に3回は、病院で食道を広げる処置を受けなければならない。少しずつ広がるチューブを、喉に押し込んでいく不快な作業だ。

現在マーコルは54歳。薬物はやめることができたが、アルコールの方はなかなか上手く行かないようだ。今は12ステップの禁酒プログラムの中にいるが、これまで酒を絶った最長期間は26ヶ月。「上がったり下がったりの苦しみが続いてる。フットボールをやめてからずいぶんになるな・・・もう22年だ。もうたくさんだよ」

薬や酒の問題が解決できたとしても、人生の全てのダメージを回復できるわけではない。最初の妻との間にできた娘ジュリーは、もう長いこと彼に口をきいてもくれない。ジュリーはいま27歳で、結婚し、ヴァージニアで暮らしている、はずだ。

今は亡きパッカーズのトレーナー、ドメニック・ジェンティルは、「体を大事にしていれば、マーコルは1990年代に入ってもキッカーを続けられただろう」と語ったことがある。マーコル自身も否定はしない。ほんの数年前、近くの高校のコーチを手伝った時も、彼は45ヤードぐらいはテニスシューズで蹴っていたという。

「全ては起こるべくして起こるのだと、今では信じるようになった。しかし不幸にも、私がいろいろなことを引き起こしてしまった。自分をいくらだまそうと、自分で選んだことなのだから」 「ときどき神に問いかけることがある。いったい目的は何なのですか、と。 私がしたことや私のいた状況を考えると、生きていること自体が、科学的にも人間的にも信じられない、と医者である弟が言っていた。たぶん(神が自分を生かしている)目的は、鎖を断ち切って子供たちを育てろ、ということじゃないかな」

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球団史上6位の521得点を記録したマーコルは、今でもパッカーズの熱烈なファンだ。「Kライアン・ロングウェルと握手して、二人でいい写真がたくさん撮れたんだ。僕らには共通の友人がいてね。だから、次に会った時には、この写真を持っていってサインしてもらおう。そう、私もサインするよ。きっと子供たちも喜ぶだろう」

マーコルはいま、妻キャロルと3人の子供たちとともに、アッパー・ミシガンの西北部に位置するダラー・ベイ(地図)の二階家に住んでいる。美しい自然に囲まれたこの田舎町に越してきたのは11年前のことだ。「都会には飽き飽きした。自分を知っている全ての人から逃れたかった」 妻キャロルと結婚した時、彼は42歳、キャロルは25歳だった。

1986年の自殺未遂で体を壊してから、彼は生活保護を受けるようになった。また、NFLからの年金も受け取っている。一時的な仕事はいろいろとしたが、今は定職には就いていない。月に$300ドルも$400ドルも医療費がかかるため、生活は楽ではない。1980年代の輸血によってC型肝炎にも感染してしまった。ヒジの手術を3回も受けた。手首を痛め、腱を移植する手術を勧められたが、$820ドルもかかるために断念。昨年には心室性頻脈と診断され、除細動器を胸に埋め込む手術を受けた。

アウトドア好きの彼は、ハンティングやフィッシングに出かけることが多い。病気のため激しい運動は避けているが、友人と船でスペリオル湖でマス釣りをしたり、家の裏庭では、鹿を解体したり魚をさばいたりする。しかし、彼の情熱はなんといってもグリーンベイ・パッカーズだ。テレビ観戦は一度も欠かしたことがない。

「今でもパッカーズの応援をしてるとナーバスになるね。自分がコントロールできなくなる。試合の前なんか、胃が痛くなりそうになるよ。自分があの入場トンネルを歩いているような気がしてくる」  パッカーズが勝ったときに、飛び上がったはずみでアンティークのランプを割ってしまったこともある。だから今は、妻キャロルの言いつけで、二階の寝室でひとりテレビ観戦だ。「妻は静かに観戦したいらしいんだよ。家族も友人も、パッカーズのことになると私が夢中になってしまうのをよく知ってる」

アルコールの問題を抱え、クスリで体がボロボロになった、ポーランド移民の元NFLのキッカー。生きていくのがつらい日もある。しかしフットボール・サンデーになれば、寝室のテレビにかじりつき、パッカーズのプレーを飛び上がって応援する。悪いことばかりではない。

カテゴリ : History