≪ 前頁へ | パッカーズの歴史 12 | 次頁へ ≫

「史上最悪のトレード」

久々の地区優勝を果たしたパッカーズでしたが、1973年は5勝7敗2分けと再び成績が落ち込んでしまいます。序盤の2勝1敗2分けから手痛い3連敗を喫し、この3試合は全てトータルオフェンスが100ydsに満たないという球団史上に残る大不振。特にデヴァインHC就任時から続くパス攻撃不振は深刻で、若手QBを3人もとっかえひっかえ起用しても全く改善されません。2つの2巡指名権と交換でドルフィンズからQBジム・デルガイゾを獲得しましたが、これも完全な失敗でした。

就任4年目の1974年10月22日、クビが危なくなってきたデヴァインHCはとんでもない賭けに出ます。34歳のベテランQBジョン・ハドルを獲得するために、1巡指名権2つと2巡指名権2つと3巡指名権1つをトレードに出したのです。しかし結果は大失敗。ハドルは主にチャージャーズでプレーして6回もプロボウルに選ばれた優秀なQBでしたが、能力の衰えは明らかで、わずか1年半しか在籍せずチームを去る結果となりました。ハドル自身に罪はないものの、この暴挙は今でも「NFL史上最悪のトレード」と呼ばれ、パッカーズファンの怨嗟の的となっています。

シーズン半ばでのQBハドル獲得後もチーム成績は改善せず、6勝8敗で1974年は終了。デヴァインHCは選手からもアシスタントコーチからも信頼を失い、シーズン終盤には反乱が起きる寸前だったともいわれます。シーズン終了直後に辞任を発表したデヴァインHCですが、シーズン中からひそかに再就職先を探し、最終戦の前にノートルダム大HC就任が決定している、という手際の良さでした。

デヴァインHCと若手QBスコット・ハンター 「史上最悪のトレード」でやってきたQBジョン・ハドル

よく「コーチとしては失敗したが人間的には素晴らしかった」などという人物評がありますが、このダン・デヴァインに関しては、在任中も辞任後もそして世を去った今でさえ、ウィスコンシンでは良い評判を聞きません。辞任の仕方に象徴されるような誠意のなさ、人望のなさ、フットボール知識の乏しさなど、いったい何故このような人物をヘッドコーチに選んでしまったかと不思議に思うほど。また地元には「不振に怒ったファンが彼の犬を撃ち殺した」という伝説も残っています(「撃たれた犬の物語」参照)。悪評はファンだけでなく地元記者も同様で、「カレッジ界で素晴らしかったのは優れたリクルーティングの手腕による」と今では分析されています。

控えQBとして1年だけ在籍したジャック・コンキャノンがデヴァインHCをこう評しています。「悪夢だった。彼は何ひとつ知らなかった。おそらく、私がプレーした中で最悪のコーチの1人だろう。ただのカレッジ・ボーイで、リクルートのことは知っていたが、プロフットボールのことは何も分かっちゃいなかった。QBミーティングで相手ディフェンスのことなど彼と話し合ったことがあるが、私の言っていることが何ひとつ分からなかった」

チームを立て直せなかったコーチ手腕にとどまらず、QBジョン・ハドルのトレードで将来の上位指名権を5つも手放してしまったことは、後任のバート・スターHC時代にも深刻な悪影響を残すことになります。

バート・スター 再び登場

名門復活を目指すパッカーズがデヴァインの後任ヘッドコーチ(兼GM)に選んだのは、ロンバルディの愛弟子として黄金期のオフェンスを率いた英雄バート・スターでした。QBコーチ経験が1年あるだけの彼に全てを託すのは大きな冒険にも見えますが、フィールド上の指揮官としての経験が豊富で人格的も優れているスターに希望を託したのでしょう。新ヘッドコーチ自ら「忍耐と祈りを」とファンに呼びかけ、再建には時間がかかることを説明して、彼の任期はスタートしました。

1975年開幕戦は、ライオンズにパント9本中3本もブロックされ、全てタッチダウンにされるという悪夢のようなスタート。開幕4連敗のあと初勝利を挙げたのは第5週のカウボーイズ戦でした。この年スーパーボウルに進出するチーム相手の金星でしたが、それ以外はさっぱりで、4勝10敗でシーズンを終えました。Kチェスター・マーコルが開幕戦で戦線離脱、プロボウルCBウィリー・ブキャノンも第2週で骨折、FBジョン・ブロキントンが大スランプ、QBハドルがNFL最多のインターセプトを喫し、ラン守備はNFL最下位と、まさに踏んだり蹴ったりの就任1年目でした。

ランが出れば勝ち、出なければ負けという状態が長く続いていましたが、1976年4月のトレードでドルフィンズからQBリン・ディッキーを獲得。強肩パサーとしてオフェンスの将来を担うことになるディッキーですが、まだ経験の浅い若手で、山あり谷ありを繰り返しながら成長していくことになります。

1976年シーズンは3連敗のあと3連勝で5割に戻したものの、11月半ばにQBディッキーが肩を脱臼して戦線離脱すると攻撃力が落ち込み、終わってみれば5勝7敗。QBディッキー以外にも、LBジム・カーター(ニチキの後継MLB)が全く出場できず、RBバーティ・スミスも中盤でヒザを壊し、この年も主力のケガに悩まされました。

1977年はオフェンスが大スランプで、1試合に2TD以上挙げたのがわずか2試合、14得点以上が2試合という体たらく。まるで1920年代に戻ったかのようなロースコアゲームを繰り返し、またも4勝10敗に終わりました。脚を骨折したQBディッキーに代わって8巡ルーキーのQBデヴィッド・ホワイトハーストが終盤の5試合に先発出場し、うち2勝を挙げたのがわずかな明るい光でした(2006年チャージャーズ3巡指名QBチャーリー・ホワイトハーストの父)。またこの年には、創立2年目のタンパベイ・バッカニアーズがAFCウェストからNFCセントラルに移り、地区5球団のしくみが2001年まで続くことになります。

これだけの不振が3年続けば今なら即ヘッドコーチ解任になるところですが、当時は基準も違っていたのでしょう。かつての黄金期を支えた英雄ということに加え、彼の高潔な人格もあったでしょうし、すでに地元が負けることに慣れてきていた、という事情があったかもしれません。

プロボウルCBとして活躍した
ウィリー・ブキャノン
代役QBとして頑張りを見せた
デヴィッド・ホワイトハースト

WRジェームズ・ロフトン

1978年のドラフト1巡6位で入団したのがWRジェームズ・ロフトン。この時期のパッカーズから殿堂入りしたのは彼だけです。スタンフォード大では名将ビル・ウォルシュの下でプレーし、また陸上競技でも200mや走り幅跳びで大活躍しました。パッカーズでは1年目からチームトップの818ydsを挙げてエースWRとなり、やがてプロボウルの常連へと成長していきます。また同じく1巡の26位で入団したLBジョン・アンダーソンは、ディフェンスの中心として80年代末までチームを支えることになります。

NFLが16試合制となったこの1978年シーズン、前年から大幅に選手を入れ替えたパッカーズは、序盤からオフェンスが好調で6勝1敗と地区首位に立ちますが、その後の9試合で2勝6敗1分け。最後の2連敗で8勝7敗1分けとなり、地区優勝もプレーオフも逃してしまいます。残ったのは6年ぶりの勝ち越しという事実だけでした。

この年ケガで全欠のQBディッキーに代わってスターターを務めたプロ2年目のQBホワイトハーストはシーズン後半にスランプに陥り、チーム成績急降下の一因となりました。RBターデル・ミドルトンはキャリア最高の1116ydsラッシングを挙げ、DEエズラ・ジョンソンは20.5サックの大活躍。また、トライアウト選手が規定の24時間以上チーム施設にいた、という違反を地元記者が報じ、それがきっかけでバート・スターHCと地元メディアとの関係が険悪になっていく、という事件もこの年にはありました。

強肩のエースQBリン・ディッキー 1年目から大活躍したWRジェームズ・ロフトン

1979年シーズンは再び成績が下降し、5勝11敗に終わります。ほとんどの試合で150ydsラッシング以上を許すというNFL最悪のラン守備。1巡指名RBエディー・リー・アイヴリーが開幕戦でヒザを壊したのを皮切りに、主力選手が次々と大ケガを負って戦線離脱していきました。そんな中でスターターに昇格したTEポール・コフマンが56キャッチ711ydsの活躍を見せ、やがて強力パス攻撃の一翼を担う存在になっていきます。

この年の慰めは5年ぶりにヴァイキングスに勝てたことぐらいでしょう。また、この年はタンパベイ・バッカニアーズが創立4年目にして初の勝ち越しに成功、10勝6敗でベアーズと同率ながら初の地区優勝を果たしています。

1980年シーズン開幕のベアーズ戦で奇跡のようなプレーが起きました。絶頂期のRBウォルター・ペイトンをなんとか65ydsに抑え、6-6で迎えた延長戦でのことです。QBディッキーからWRロフトンへの32ydsパスで敵陣18ydsまで進み、Kチェスター・マーコルが35ydsのサヨナラFGのチャンス。蹴ったボールはDTアラン・ペイジにブロックされますが、まっすぐ跳ね返ったボールがちょうどKマーコルの胸に収まり、持ち前のスピードで25ydsを駆け抜けてサヨナラのタッチダウンにしてしまったのです。(下の写真)

Kマーコルはチームメイトにもみくちゃにされ、54,381人の観客はたいへんな大騒ぎ。宿敵ベアーズ相手の劇的な勝利だからなおさらです。このタッチダウンは球団史上に残る名(珍)プレーとして、今でもファンの語り草となっています。しかしシーズンの盛り上がりも開幕戦がピーク。2年連続で大量のケガ人に見舞われたパッカーズは、成績もほとんど同じ5勝10敗1分けという低迷のシーズンとなりました。またKマーコル自身も、かつてはプロボウルに2回選ばれた有力キッカーでありながら、すでにドラッグに深く体を蝕まれており、ヒーローとなった歓喜の開幕戦からわずか1ヵ月後に解雇されています。(「チェスター・マーコルの物語」参照)

マーコルを解雇したバート・スターHC自身、かろうじてヘッドコーチ解任は避けられたものの、シーズン終了後にGM職を剥奪されています。しかし剥奪されたのは肩書きだけで、役員会はなぜか専任のGMを指名せず、スターHCは実質的にこれまでどおりの重い職責に苦しむことになりました。

FGブロックされたボールが Kチェスター・マーコルの正面に


 
マーコルはエンドゾーンへと一直線 (あまりの急展開にピントが合っていない)
≪ 前頁へ | 目次へ | 次頁へ ≫