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フィル・ベングストン時代

1968年、ヘッドコーチに昇格したフィル・ベングストンは、ロンバルディ時代を支えた優秀なディフェンス・コーチでした。もともとロンバルディはディフェンスをほぼベングストンに任せていましたから、GMに退くにあたってベングストンを後任に選んだのは自然の成り行きでもありました。

1968年のパッカーズは6勝7敗1分けに終わり、僅差ながら地区3位。優秀なキッカー、ドン・チャンドラーが引退し、後任のキッカーたち(4人も登場)のFG成功率は44.8%と大不振で、接戦をいくつも落としたのが響きました。得失点差(+54)ではヴァイキングスを大幅に上回っていたのですから。名将バド・グラント率いるミネソタ・ヴァイキングスは8勝6敗で初の地区優勝を飾り、ここから黄金期を迎えることになります。

フィル・ベングストンHCは、すらりとした長身で、物静かで、選手たちを大人扱いする、あらゆる意味でロンバルディとは対照的なヘッドコーチでした。すでにロンバルディ最終年からその兆しはありましたが、黄金時代を支えた主力たちが次第に衰え、チーム力は次第に低下していきます。それにまた、これまで厳しい扱いを耐えてきた選手たちの規律が大幅に低下してしまったことが、成績悪化の一因だったようです。

1969年シーズン、ロンバルディがGM職を辞任してレッドスキンズに移ったため、ベングストンがGMも兼任することになりました。この年は8勝6敗と再び勝ち越しに成功しますが、12勝を挙げてスーパーボウルまで進んだヴァイキングスとの差は決定的に開いてしまいました。

1970年2月にNFLとAFLは正式に合併し、NFC3地区・AFC3地区の制度が整います。またこの合併に伴い、NFL全体でジャージの背中に選手名を書くことが義務付けされました。夏になると労使紛争が燃え上がりますが、ピート・ロゼール・コミッショナーの仲介でかろうじて労使協約がまとまりました。

そうして迎えた1970年シーズン、3年目のベングストンHC率いるパッカーズは再び6勝8敗と負け越し。開幕戦と最終戦でどちらもライオンズ(この年プレーオフ出場)に完封負けを喫し、勝敗以上に大きな不満の残るシーズンでした。

シーズン終了後、ベングストンHCは通算成績20勝20敗1分けの成績を残して辞任します。ロンバルディの巨大な影に押しつぶされた、最初の犠牲者と言えるかもしれません。黄金期を経験した球団が3年間で2回の負け越しに耐えられなかったのは無理もないことですが、その後の長い長い不振を考えれば、これはまだ秋の始まりに過ぎませんでした。

この1970年にランボーフィールドは三度目の増築を行い、5,411席を増設して収容人数は56,263人に。外に開いた部分が完全になくなり、初めてスタンドがフィールド全体を取り囲む形となりました。

去りゆく名選手たち

ロンバルディHCのもとで黄金期を支えたベテランたちが、この時期に次々とチームを去っていきます。名前を挙げるだけでも大変ですが、後に殿堂入りした名選手だけを下記に列挙してみましょう。

すでにRBポール・ホーナングは1966年限りで現役を退き、FBジム・テイラーも1967年にセインツへ移籍(1年で引退)。DEウィリー・デイヴィスとDTヘンリー・ジョーダンは1969年限りで引退。CBハーブ・アデリーは1970年にカウボーイズに移り、3年プレーして引退。QBバート・スターとFSウィリー・ウッドは1971年限りで引退。OTフォレスト・グレッグは同じく1971年にカウボーイズに移り、1年で引退。最も長くがんばったLBレイ・ニチキも、1972年限りで引退しています。

1964年にトレードに出したCジム・リンゴを含めると、ロンバルディの下でプレーした選手で後に殿堂入りしたのはなんと10人にも上ります。RBホーナングやOTグレッグのような生まれついての名選手もいましたが、QBスターはドラフト17巡、DEデイヴィスはドラフト15巡、CBアデリーはドラフト外からの叩き上げ。LBニチキは3巡指名でしたが、ロンバルディ就任時には解雇寸前のダメ選手でした。彼ら殿堂入り選手に限らず、多くの元選手が「ヴィンス・ロンバルディのおかげで自分はここまでなれた」と振り返っています。

1970年の"Bart Starr Day"で
スピーチする QBバート・スター
1971年の"Ray Nitschke Day"で
男泣きする LBレイ・ニチキ

ダン・デヴァイン時代

1971年1月、ベングストンを解任したパッカーズが後任のヘッドコーチに選んだのは、カレッジで大きな実績を残した46歳のダン・デヴァインでした。アリゾナ州立大の3年間で勝率.887(最終年は10戦全勝)と素晴らしい成績を挙げてミズーリ大に移ったデヴァインは、そこでの13年間で92勝38敗7分けの成績を残し、ドアマットだったチームを強豪へと育て上げたのです。

開幕戦では2点差でジャイアンツに敗れたうえ、試合中にデヴァインHCが選手と激突し左脚を骨折して病院に運ばれる、という不吉なスタート。デヴァインHCは第2戦もボックス席から指揮を執りました。37歳のQBバート・スターは肩の手術のため4試合しか出場できず、6巡指名ルーキーのQBスコット・ハンター(レーティング46.1)が先発するのでは、結果は目に見えています。開幕戦での悪い予感は的中し、1958年以来最悪の4勝8敗でデヴァインHCの1年目は幕を閉じました。

唯一の明るい話題は新人FBジョン・ブロキントンの大活躍。オハイオ州立大から1巡9位で入団した彼は1105ydsラッシング(平均5.1)を挙げ、オフェンス新人王に加えてプロボウルやオールプロにも選出されます。ベテランRBドニー・アンダーソンとのコンビは強力で、チームラッシングは2229ydsの好成績。FBブロキントンはこの新人年から3年連続で1000ydsラッシングを記録し(プロボウルも3年連続)、オフェンスの大黒柱となっていきます。

いっぽう37歳のQBスターは10試合休んでシーズン終盤に復帰しましたが、かつてのようなプレーはできず、翌1972年6月に引退を表明しました。

後にパッカーズの社長となるボブ・ハーランは、それまで野球のセントルイス・カーディナルスのフロントで働いていましたが、この1971年にデヴァインHCに誘われてパッカーズのアシスタントGMに就任しました。やがて副社長を経て1989年に第9代グリーンベイ・パッカーズ社長となり、ロン・ウルフGM招聘など90年代のパッカーズ再生のきっかけを作り、ランボーフィールド大改装を成功させるなど偉大な功績を残すことになります。

攻撃の中心 FBジョン・ブロキントン ポーランド人キッカー チェスター・マーコル

次第に世代交代が実を結んできた1972年。パッカーズは10勝4敗の好成績で5年ぶりの地区優勝を果たします。攻・守・スペシャルチームにわたって若い新戦力が大きく貢献しました。

前年の新人王 FBジョン・ブロキントンは引き続き好調で、RBドニー・アンダーソンとのトレードで加入したRBマッカーサー・レーンとともに、強力なバックフィールドを構成します。ディフェンスはNFL2位。1巡7位指名のCBウィリー・ブキャノンの活躍もあり、NFL最小の7回しかパスTDを許しませんでした。

もうひとり新たなスターとなったのが、新人キッカーのチェスター・マーコルでした。15歳までポーランドでサッカーをしていた彼は、移住先の高校コーチの勧めでキッカーを始めるとトントン拍子で大学のスター選手となり、異例のドラフト2巡でパッカーズに。飛び抜けた飛距離と正確性でシーズン33FG成功128得点(どちらもNFL1位)を挙げ、新人ながらオールプロに選ばれました。

相変わらずパス攻撃は非力ながら強力なラン攻撃でボールを進め、Kチェスター・マーコルのフィールドゴールで着実に得点していくのが勝ちパターン。優秀なキッカーのおかげで接戦をモノにできたという点で、1968年シーズンとは対照的なシーズンと言えるでしょう。

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