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四連覇ならず

1929年から1931年にかけて三連覇を達成したパッカーズ。さらに、後の殿堂入り選手が2人加わりました。1930年のQBアーニー・ハーバー1932年のFBクラーク・ヒンクルです。QBハーバーは地元グリーンベイの出身で、NFLで最初の、素晴らしい長距離パサーと言われています。FBヒンクルは強烈なブロッカーであり、優れたランナーでもありました。彼の功績を讃えて、練習フィールドのひとつが"Clarke Hinkle Field"と名付けられています。

Arnie Herber
地元グリーンベイ出身のロングパサー
Clarke Hinkle
タフに突進するフルバック 守備ではLB

また、この時期に攻守兼用の名ラインマンとしてパッカーズの黄金期を支え、殿堂入りも果たしたカル・ハバードは、こののち野球のメジャーリーグでも長らく名審判として活躍し、野球の殿堂入りも果たしています。NFL、野球そしてカレッジ・フットボールの3つで殿堂入りしたのは、このハバードが初めてなのだそうです。

1932年シーズンを10勝3敗1分けという成績で終えたパッカーズは、7勝1敗6分けのベアーズに勝率で破れ、惜しくも四連覇はなりませんでした。

Mike Michalske
60分フル出場した鉄人ラインマン
Cal Hubbard
サイズとスピードを兼ね備えた名ラインマン
MLB の名審判としても
尊敬を集めたハバード
 

いくつかの転機

1932年までは1リーグ制だったNFLですが、翌1933年シーズンから5チームずつが東西2つのディビジョンに分かれ、両地区のチャンピオンがNFLチャンピオンシップを戦うことになりました。グリーンベイはもちろん西地区。当時はまだ西海岸にはNFLチームは一つもありませんでした。

当然のことながら、ホームゲームの全てをグリーンベイで行ってきたパッカーズですが、1933年からはホームゲームの一部を、同じウィスコンシン州の大都市ミルウォーキーでも行うようになります。これはつい最近の1994年シーズンまで続き、ホーム8試合のうち3試合はミルウォーキーで行っていました。

1930年から上位争いを続けてきたポーツマス・スパルタンズ(ポーツマス条約で有名なニューハンプシャー州のポーツマスでなく、オハイオ州のポーツマス)が、1934年シーズンからデトロイトに移り、ライオンズと改名。これをもってNFLの"スモールタウン時代"は終焉を迎え、ここからはグリーンベイだけが唯一のスモールタウンのチームとして存続していくことになります。

ロンバルディ以前の"Packer Sweep" 走るのはBobby Monnett

またもや財政危機

1933年には5勝7敗1分けと、創立以来初めての負け越しを経験したパッカーズ。しかし1934年にはそれ以上の危機がチームを襲います。あるゲームで、(酔っ払っていたらしい)ファンの一人がスタンドから転落して大ケガを負い、パッカーズを相手取って訴訟を起こしたのです。$5,000ドルの賠償を命じられたパッカーズですが、間の悪いことに(大恐慌時代の真っただ中です)、支払ってくれるはずの保険会社が倒産してしまい、全額をチームがひっかぶることになってしまいました。

これほどの額を支払う能力はパッカーズにはなく、チームは破産し、管財人の管理下に置かれることになってしまいました。ここで、チームの弁護士ジェラルド・クリフォード(前回の危機で、株式会社化のアイディアを出した人)は、判事を説得し、パッカーズの株主でもあった公認会計士フランク・ジョネットを管財人に指名してもらうことに成功します。実は、この判事もまたパッカーズのファンであったとのこと。

管財人フランク・ジョネットのもと、 パッカーズは二度目の株式発行を行うことになり、これで$15,000ドルの再建資金が集まりました。また当時の球団社長のリー・ジョアンズは、個人で$6,000ドルもの大金をチームのために差し出してくれたのです。このようにして全ての負債を完済し、地元の実業家たちの助けでパッカーズは再建に成功するのです。

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