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NFL加盟

最初の2シーズンを終え、19勝2敗1分け。この好成績に気を良くしたカーリー・ランボーは、1921年夏、オーナーのAcme Packing Company を説得し、出来て間もないプロ・フットボール・リーグへの加盟に成功します。

NFLの前身であるAmerican Professional Football Association1920年9月17日、オハイオ州カントンで結成されました。パッカーズが加盟したのは、その2年目のシーズンから、ということになります。現在のNational Football Leagueと名前を変えたのは、翌1922年のこと。第一次大戦後の好調なアメリカ経済を背景に、大衆は娯楽を求めていました。有力大学の試合の方がまだまだ人気はありましたが、そのようなビッグゲームが見られない地域の人にとって、プロフットボールは有力な選択肢になりました。

現存するNFLチームの中で、パッカーズより先、つまりNFL設立元年から加盟していたのは、ベアーズとカーディナルズだけ。ただ、ジョージ・ハラス率いるベアーズは当時シカゴにはなく、Decatur Staleys という名前でした。逆にカーディナルズは、当時シカゴにありました。ですから、少しこじつけてしまえば、現存する最古のNFLチーム名はグリーンベイ・パッカーズと言うこともできるわけです。

パッカーズのNFL最初のシーズンは、3勝2敗1分けというやや控えめな成績で、21チーム中、6位タイに終わりました。

最初のトラブル

設立当初から資金難に苦しんでいたパッカーズですが、1922年には大きなピンチがやってきました。1921年シーズンに、禁止されていたにもかかわらず、3人の大学選手を使ったこと(多くのチームがやっていたようですが)をリーグ側にとがめられ、フランチャイズ権を取り上げられてしまったのです。

フランチャイズの権利を取り戻すには、謝罪だけでは不足だ、$250ドルを納めろ、とリーグ側は脅します。しかしパッカーズのオーナー会社は、とてもそんな金は出してくれなかったようです。カーリー・ランボーは、自腹で$50ドルは用意したものの、あと$200ドル足りません。そこで助けてくれたのが、ランボーの友人のドン・マーフィーという人物でした。リーグ本部のあるオハイオ州カントンに着くと、マーフィーはそこで自分の車を売り、$200ドルををランボーに託したのです。残った金で、グリーンベイへ帰る列車の切符を買いました。

これによって、リーグはパッカーズの再加盟を許し、ランボーは(一時的にせよ)パッカーズのオーナー(兼ヘッドコーチ兼GM兼プレイヤー)ということになりました。この功績を感謝された友人ドン・マーフィーは、9月24日のノン・リーグ戦に、(最初のキックオフのカバー)出場させてもらった、という微笑ましいエピソードが残っています。実際はキックオフと同時に、一目散にサイドラインに逃げ帰ったそうですが、もしこの友人の侠気がなかったら、パッカーズも他の多くのチームと同様、設立して数年で歴史を閉じていたことでしょう。

資金難、そしてファン所有のチームへ

すったもんだのあげく、ようやく迎えた1922年シーズン。しかし度重なる大雨にたたられ、収益が大きく落ち込んでしまいます。ある試合などは、雨で中止になったにもかかわらず、公式発表の雨量がわずか100分の1インチ足りなかったために保険が下りない、という不運もありました。オーナーとなったカーリー・ランボーですが、またたく間に$2,500もの借金を背負うことになってしまいました。ほとんど破産状態で、再びフランチャイズ消滅の危機です。

ここで救援にかけつけたのが、Green Bay Press-Gazette紙の社長兼発行人のアンドリュー・ターンブルでした。ターンブルは地元の実業家や弁護士たちを説得して、なんとかパッカーズの財政基盤を作ろうとプランを練ります。そこで弁護士ジェラルド・クリフォードによって考え出されたのが、「株式を発行することによってファン所有のチームにする」というアイディアでした。

こうして1923年の夏、400人以上の人々が地元のElks Clubに集まり、非営利団体のThe Green Bay Packers Corporationが発足しました。一株$5ドルで、発行株数は1,000株。株主には、最低6席のシーズン・チケットが与えられる、という特典付きでした。83年の歴史の中で、株式の発行は、これを含めて4回行われることになります。初代社長には、ターンブルが就任しました。この時、チームを救おうと奔走した、ランボー、ターンブルら5人の男たちは"Hungry Five"として今もグリーンベイでは語り草になっています。

グリーンベイ・パッカーズ最初の株式(1923年)  Andrew B. Turnbull
初代社長

誕生から4シーズンの間に、2つの缶詰会社、そしてランボー自身もオーナーになりましたが、グリーンベイ・パッカーズはようやく安定した財政基盤を手に入れることができました。そしてまた、北米プロスポーツ唯一の市民所有のチームとして、記念すべき第一歩を踏み出したのです。

実はこの頃、ランボーとカルフーンの2人は、チーム名を"Big Bay Blues"に変更しようとしたのだそうです。チームカラーは今と違ってブルー&ゴールド(実際は黄色)でしたし、すでに缶詰会社はオーナーでなくなっていたからでしょう。幸い?チーム名を変更する案は支持を得られず、今に至るまで"グリーンベイ・パッカーズ"のまま続くことになりました。

1923年のシカゴ・ベアーズ戦
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