グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2013年10月27日

ストリート・フリーエージェントの生活

マット・ボウエンはかつてレッドスキンズで先発セーフティとして活躍し、その前にはパッカーズでも2年間プレーしたことがある。ネットメディアでNFL解説者として活躍する彼が、解雇されて各球団のワークアウトを巡り歩いた経験を振り返ってくれたので、すこし長くなるがここで紹介したい。2001年当時、彼はアイオワ大から6巡指名でラムズに入団したばかりのスペシャルチーマーだった。

2011年秋、ルーキーシーズンの私はイーグルスとの開幕戦で足を骨折し、インジャリーリザーブに入っていた。パントリターンのブロックをしようとして人工芝の継ぎ目に足が引っかかってしまったのだ。翌日手術を受けた。プロ入り1試合目でシーズンが終わりというわけだ。

ラムズはすぐに私をインジャリーリザーブに入れた。それまで私の日常生活は練習、ミーティング、そしてゲームだったのが、リハビリだけの暮らしになった。ギブスが取れたら毎日出勤し、プールでトレーニングし、アイシングし、筋刺激療法を受ける。次の日はまた同じことの繰り返し。

NFLでは、大ケガをした人間は幽霊同然になる。それが当然だ。試合に関係のない人間は邪魔なだけだ。

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ある火曜日、朝9時15分に私はようやく携帯電話に出た。それまでに3回も留守電が入っていた。すべてラムズ・パーク(球団本部)からのものだ。前夜私はセントルイス郊外のチャリティ・イベントでバーテンダーを務め、大いに飲み、笑い、楽しんだ。

そんな私にラヴィー・スミスDCから「話があるから来い」と3回も留守電が入っている。なんてこった、ついにオレの番か。

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その前週には負傷後初めて、「フィールドで動いてみろ」とラムズのトレーニングスタッフから言われ、無邪気な自分はさして考えることもなくその通りにした。ワークアウト? もちろんやりますよ。

考えが足りなかったな、坊や。

走ったりカットしたりジャンプしたりバックペダルできることをトレーナーに見せ、私は「健康なプレーヤー」であることを証明してしまった。これで球団側は解雇できることになった。(負傷中の選手はそのままでは解雇できないルール)

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ミズーリ州チェスターフィールドのアパートメントで、私はラヴィー・スミスDCからの電話に完全にパニックに陥った。なんとかスウェットとシューズとジャケットと帽子を見つけた。鏡を見ると、いかにも深夜までビールを飲みまくっていたという顔だ。しかもすでに遅刻している。

私はトラックに飛び乗るとラムズ・パークへと車を走らせ、9時45分に駐車場に着いた。ビルディングは静まり返り(NFLではふつう火曜が休日)、フロントデスクの秘書から「ラヴィーが上階で待っている」と告げられた。万事休す。誰だってわかる。オレはもう終わりだ。

私はできるだけプロフェッショナルな態度を保とうとした。コーチとして、リーダーとして、ラヴィーをとても尊敬していたからだ。それでも私には質問があった。なぜオレが? アクティブ・ロースターにさえいないのに? ラヴィーは解雇選手への教科書どおりの返答をした。落ち込んでいる選手の気持ちを少しでもマシにしようとするお決まりの文句だ。

私は打ちのめされた。これで無職になったのだ。

ワークアウト・サーキットを計画

まず私は仕事中の父に電話をし、ラムズから切られたことを話した。つらかった。クビになったと父親に伝えたいヤツはどこにもいない。

私はひとり泣き、毒づいた。キャンプの時からあれほど必死に頑張ってきたのに。しかもこのチームは優秀だった。カート・ワーナー、マーシャル・フォークといったビッグネームが居並び、上昇機運にあった。自分もその一部になりたかった。二度とリーグに戻れないことが私は怖かった。

次に電話したのは私の代理人、サンディエゴにいるジャック・ベッチャだ。彼は私をなだめ落ち着かせると、すぐに仕事に取りかかった。いくつもの球団に連絡を取り、ウェイバーで獲得するよう働きかけた。解雇から24時間、希望した球団が(ウェイバー優先順にしたがって)私を獲得できる。

しかし24時間経ってもまったく音沙汰なし。私は求職中のストリート・フリーエージェントの身分になった。

私はセントルイス地区のジムでトレーニングを始めた。寝室のドレッサーを利用してボックス・ジャンプをしたりもした。球団のトレーニング施設が使えない以上、いろいろ工夫してやるしかない。NFL球団からワークアウトの誘いがあった時のため、体作りをしておくことが必要なのだ。

代理人のジャックがいくつかワークアウトを設定してくれた。まずグリーンベイ、そして西へ向かってアリゾナ、サンフランシスコ、シアトルを回って家に帰る。私はダッフルバッグにスウェットやシューズを詰め込み、部屋に鍵をかけ、タクシーに飛び乗ってランバート空港へ向かった。

さあ職探しを始めよう。

ワークアウト

私がチーム施設に姿を現しても、選手は誰ひとり私と話をしたがらない。無理もないことだ。私は外部の人間、NFLの落ちこぼれ、無職の男だ。それに、誰かが仕事を得たら、ロッカールームにいる53人のうち誰かが仕事を失うのだから。

ワークアウトといっても、その内容だけで合否が決まることはない。どの球団もすでにコンバイン等の数字は把握していて、ゲーム映像も分析済みなのだ。ワークアウトを行うのは、今どれだけ体ができているか、健康体であるかを確認するため。私の場合、骨折した足のX線検査を毎回受けさせられた。

コンバインの種目をすべてやらせる球団もあれば、ポジション・ドリルだけの球団もある。グリーンベイでは、私はコンバインの全種目、DBのドリル、そしてキックカバレッジを模したプレーを行った。ランボーフィールドから道をはさんだ場所にある屋内練習場だ。

しかし私が49ersでのワークアウトを終え、週末にシアトルに着く頃には疲れ果てていた。脚は筋肉痛、足は焼けるように痛く、ハムストリングにも張りがあった。寒い雨模様の午後、シーホークスでワークアウトを終えると私はまた空港へ戻った。

とりあえずこれで家へ帰れると思った矢先、ジャックから電話がかかってきた。また1つワークアウト。明日の朝ニューイングランドだ。

急きょ決まったワークアウトということで、ペイトリオッツは深夜便にファーストクラスを用意してくれた。朝6時に空港に着き、朝7時半からワークアウトの予定だ。私は空港のゲートを移動して、東へと6時間のフライトとなった。3時間ほど寝たところでプロビデンス空港に着き、球団がよこした迎えの車でホテルへ。なんとか1時間でも寝るためだ。

私の身なりはひどいものだった。清潔な衣類は底をつき、腹をすかせ、疲れ切っていた。20分ほど目を閉じ、ロビーへと降りて行った。また走る時だ。

ピオリ、ベリチック、ペイトリオッツ

ペイトリオッツで契約できることに私は自信を感じていた。母校アイオワ大のカーク・ファレンツHCがビル・ベリチックHCやスコット・ピオリ人事部長(のちチーフスGM)と近しかったこともある。とにかく走って健康に見えればいい。それが私の目標だった。

まず最初に私はボストンのダウンタウンに行き、マサチューセッツ総合病院で検査を受けた。標準的な手続きだ。球団施設に戻ると、旧フォックスボロ・スタジアムの隣にある練習フィールドへ。そこでピオリ人事部長やベリチックHCやスカウトたちの前で、バックペダルしたりディープボールを追ったりフットワーク・ドリルをこなしたりした。(契約しても)私の仕事はキックのカバレッジ。それだけだ。でもそれが私がリーグに戻るための唯一の道だった。

どうしてもこの仕事がほしかった。

ワークアウトを終えてシャワーを浴び、ジャックと電話で話をした。ペイトリオッツは契約してくれるだろうとのことだった。しかしピオリのオフィスに入ると、状況は変わっていた。私はフィジカルに不合格だったのだ。ここのメディカルスタッフによると私の足は完全に治っておらず、負傷中の選手とは契約できないとピオリに告げられた。

私はやはり無職。そうそう、この年のペイトリオッツはスーパーボウルを制覇した。

マイク・シャーマンとパッカーズ

それから2週間、どの球団からも連絡はなかった。私はトレーニングを続け、日曜には試合を観てケガ人をチェックした。私は惨めで孤独だった。もちろん誰かセーフティがヒザを壊すのを見たくはない。でも、ハムストリングの肉離れや足首の捻挫ぐらいなら? 私にはチャンスが、機会が必要だった。

そしてグリーンベイでそれが起きた。リロイ・バトラーが倒れたのだ。(肩甲骨骨折)

マイク・シャーマンHC(兼GM)から電話がかかってきたとき、ヤンキース対ダイヤモンドバックスのワールドシリーズを見ていたことをよく覚えている。契約して2週間ほど練習してから実戦に出したい、という話を聞いて、私の心臓は止まりそうになった。

ついに復帰できるのだ。

コーチ・シャーマンからの電話を切ると、引っ越し会社で働く友人に電話して「家財道具はトラックに詰め込んで倉庫に入れておいてくれ」と頼んだ。バッグに衣類を詰め込んで出発だ。

インターステート55号線を北へ。故郷のイリノイ州グレン・エリンに立ち寄って両親と簡単な夕食を取り、ふたたび夜道を走り始めた。夜半ごろにランボーフィールドの近くにあるヒルトン・ガーデン・インにチェックインし、翌日パッカーズの練習に参加した。

ブレット・ファーヴと一緒にプレー? 喜んで。

またセントルイスへ

セントルイスへ初めて戻ったのはNFCディビジョナル・プレーオフの対戦だった。試合前にはマイク・マーツHC、ラヴィー・スミスDC、それに旧チームメイトと話をした。またこうして彼らと会えるのは素晴らしいことだ。

試合結果? ラムズが45-17で圧勝だ。ファーヴが6インターセプトを投げ、ディフェンスはQBワーナー、RBフォーク、WRブルース相手に何もできなかった。ラムズはスーパーボウルへの道を進み、私たちは家に帰ってオフシーズンを迎えた。

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自分の体にとってこのシーズンの負担は非常に大きかった。プレーオフを迎える頃には体重が190ポンドぐらいまで落ちていた。痩せ細り、脆く、弱かった。本当に消耗しきっていた。

セントルイスでの家具はシカゴの貸倉庫に放り込んだまま。パッカーズとは2年契約だったので(グリーンベイ近くの)デピアに月$600ドルのアパートメントを見つけた。シーズン終了後2週間でウェイトトレーニングを再開した。翌シーズン、パッカーズのシステムに慣れた私は6試合も先発し、翌春にはレッドスキンズと4年契約を結ぶことができた。

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私は若い時にこうしてワークアウト・サーキットを経験できたことを嬉しく思っている。NFLのビジネス・サイドを学び、フットボール選手として数少ないチャンスを活かすことがいかに重要か、知ることができたからだ。

そして、ストリートでNFLの仕事を探す選手の1人となったのは本当に屈辱的な経験だった。

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