グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2010年2月 4日

この10年のパッカーズ10大事件

Press-Gazette紙のマイク・ヴァンダーマウスの選ぶ2000年代パッカーズ10大事件を紹介する。(解説文はすべて管理人による)

10. 4thダウン26

2004年1月11日、NFCディビジョナル・プレーオフ@フィラデルフィア。パッカーズ3点リードで迎えたイーグルス最後の攻撃。サックで4thダウン26に追い込み、残り1分12秒。QBマクナブからWRフレディ・ミッチェルに28ydsパスを通されて1stダウンを許し、終了間際に37ydsFGが決まって延長へ。QBファーヴが直後にインターセプトを喰らってけっきょくサヨナラFG負け。(Gamebook

最終戦でヴァイキングスが劇的な逆転負けを喫したためにプレーオフに滑り込むことができたが、戦力的にはこの2003年シーズン後半がマイク・シャーマンHC時代の頂点だった。RBアーマン・グリーンが球団記録の1883ydsを走りまくり、2年目で急成長したWRジャヴォン・ウォーカーがディープスレットとして台頭。ただディフェンスがここ一番で勝負弱く、エド・ドナテルDCは数日後に解任されている。

9. NFC決勝敗退

2008年1月20日、NFC決勝@グリーンベイ。第2シードから10年ぶりのスーパーボウル出場を目前にしたパッカーズに対し、強力ディフェンシブラインのジャイアンツ。気温-18.3℃のなか両チームはシーソーゲームを繰り広げ、ジャイアンツのKローレンス・タインズが第4Q終了間際に36ydsFGを失敗して延長へ。しかし4年前と同じくQBファーヴのインターセプトでサヨナラFGの決着(Gamebook)。 プレーオフ初戦の相手がシーホークスという点も4年前と同じだった。

8. ドラフト1巡でQBを指名

2005年4月23日、ドラフト1巡24位でカリフォルニア大のQBアーロン・ロジャースを指名。いの一番指名の可能性もあったロジャースだが23球団から指名を見送られ、グリーン・ルームのTVカメラの前に5時間も取り残された(記事へ)。なおパッカーズの1巡QB指名は1981年のQBリッチ・キャンベル(これもカリフォルニア大)以来、24年ぶりの事件だった。大バストとなったキャンベルだが、NFL引退後は地方紙のコラムニストとして長く活躍している。

7. レイ・ローズHCを1年で解任

2000年1月3日にレイ・ローズHCの解任を発表。マイク・ホルムグレンの後任に選ばれたレイ・ローズHCだったが、8勝8敗シーズンを終えたその晩にロン・ウルフGMから解任を告げられた。成績じたいよりも、選手たちを掌握しきれず規律面でチームが崩壊したことが解任の理由となったようだ。ウルフGM自身が選んだHCとはいえ、過ちを公に認めて失敗を長引かせなかった、という点でむしろ評価されている。解任後のローズはディフェンシブコーディネーターとして活躍を続け、WAS、DEN、SEAでDCを務めた。

後任のマイク・シャーマンは、パッカーズでTEコーチを務めたあと、ホルムグレンHCとともにシーホークスに移ってオフェンシブコーディネーターを務めた。他の候補と比べて地味な存在だったが、ウルフGMとの面談の内容が非常によかったのが決め手となった。ヴィンス・ロンバルディに憧れ、子供の頃から夢見ていたのがグリーンベイ・パッカーズのヘッドコーチという仕事だった。

6. シャーマンHCからマッカーシーHCへ

2000年に就任したマイク・シャーマンHCは強力なオフェンシブラインを作り上げ、RBアーマン・グリーン中心のラン攻撃の確立に成功。2年目から4年連続でプレーオフ進出を果たしたものの、一度もNFC決勝に進むことができず、翌2005年シーズンは4勝12敗の大不振で解任。退任後のシャーマンはテキサンズでオフェンシブコーディネーターを務めたあと、2008年から古巣テキサスA&Mのヘッドコーチに。強力オフェンスを築きながらディフェンスの大量失点に苦しんでいて、なんとなくパッカーズ時代を彷彿とさせる。

後任ヘッドコーチに選ばれたマイク・マッカーシーは、短命に終わったレイ・ローズHC政権下でQBコーチを務めた人物。その後セインツと49ersのOCを務めた。ジョー・モンタナに始まって、スティーヴ・ボノ、リッチ・ギャノン、マット・ハッセルベック、アーロン・ブルックス、ジェイク・デローム、そしてアーロン・ロジャースと、QB指導の実績はNFL屈指だろう。就任4年間で2度のプレーオフ進出を果たし、「複数のQBを擁してプレーオフに進出」はパッカーズでは初代カーリー・ランボーHCしか成し遂げていなかった快挙。

5. 波乱のCEO交代

90年代のチーム再生とランボーフィールド大改修の功労者、ボブ・ハーラン社長兼CEOの定年退職に伴って、ジョン・ジョーンズ上級副社長が昇格するレールが数年前に敷かれていた。しかし球団職員たちから思わぬ反発の声が上がり、政権委譲の数日前になって苦渋のジョーンズ解任。経営委員会は半年かけて新たに新CEOを選び直し、ノースウェスタン大学体育局長のマーク・マーフィが新社長兼CEOとなった。

こうして2008年1月に就任したマーク・マーフィだが、その経歴がものすごい。ディビジョンI-AAのコルゲート大からドラフト外でレッドスキンズ入りし、頭脳派セーフティとしてプロボウラーまで上り詰めた。そのかたわらジョージタウン大のビジネススクールに通ってMBAを取得し、労使紛争の際には選手会副会長として団交の中心的役割を担った。引退後はロースクールに進んで弁護士資格を取り、NFL選手会の副事務局長を務めたあと、4年間司法省で弁護士として働いた。1992年からは母校コルゲート大の体育局長、2003年からはシカゴの名門ノースウェスタン大の体育局長。

パッカーズ社長に就任すると、特異な経歴からコミッショナーに請われてNFLの"Management Council" (オーナー会の中心的委員会)に加わり、いま進行中の労使交渉でもNFL側の中心的存在となっているらしい。80年代とはテーブルの逆側に座っているのが面白い。

4. ジェネラルマネージャー交代

2005年1月、4年連続プレーオフに進出したマイク・シャーマンHC兼GMだが、1人で両方を兼任するには荷が重すぎるとボブ・ハーラン社長は判断。GMの任を解き、後任にはシーホークス副社長のテッド・トンプソンが選ばれた。ロン・ウルフ元GMの強い推薦によるものだった。トンプソンとシャーマンは1年間ともに働いた結果、関係はやはり芳しくなく、4勝12敗の2005年シーズンを最後にシャーマンがチームを去ることになった。

FA補強に消極的なことで有名なトンプソンGMだが、若手中心のチーム作りの手腕はファンよりもむしろNFL関係者の間で評価が高い。ファーヴ騒動を乗り越えてわずか1年でプレーオフ復帰を果たし、あとはチームを優勝へ導けるかどうか。

3. ロン・ウルフGMの電撃引退

10年間パッカーズのGMを務め、チーム再建の立役者となったロン・ウルフGM(当時62歳)だったが、2001年2月1日に突如引退を発表。後任にマイク・シャーマンHCを選んだ。

ボブ・ハーラン社長に請われてロン・ウルフが就任した1991年当時、栄光の時代はすでに遠く、ロンバルディ退団後の24年間でプレーオフ進出はわずか2回、勝ち越しシーズン4回、146勝201敗9分(勝率.420)。ウルフは49ersのマイク・ホルムグレンOCをヘッドコーチに据え、ファルコンズで不遇の1年目を終えたばかりのブレット・ファーヴをドラフト1巡指名権と交換で獲得。1年目はプレーオフを逃したものの、2年目はDEレジー・ホワイトを獲得してプレーオフに進出し、1996年にはついにスーパーボウル制覇を果たした。在任10年間で負け越しなし。

彼の教え子たちはいまNFLで大きな成功を収めている。ざっと見渡しただけでも、パッカーズのテッド・トンプソンGM、タイタンズのマイク・ラインフェルトGM、シーホークスのジョン・シュナイダー新GM、ブラウンズのマイク・ホルムグレン新社長、49ersのスコット・マクルーハンGMなどが人事部門のトップとして活躍している。

2. 伝説のクォーターバック

16年にわたって球団の顔として大活躍してきたQBブレット・ファーヴが、2008年3月に涙の引退会見。数週間後に気持ちが変わって復帰を伝えたため球団側は受け入れたが、再び変心して引退に逆戻り。そのためチームはドラフト2巡でQBを獲得した。7月に3回目の変心をして現役復帰を決意したとき、パッカーズ側はもう付き合うつもりはなく、ファンを二分する第1次ファーヴ騒動の勃発となった。全米メディアを巻き込んだ大騒動の末、8月上旬にファーヴがグリーンベイを訪れたとき、チーム側は「ロジャースとの競争なら」と受け入れを容認する姿勢に転じたが、ファーヴにはもうパッカーズでプレーする気持ちはなく、パッカーズをトレードに追い込むためだけの最後の訪問だった。

パッカーズは本人の熱望したヴァイキングス移籍だけは許さず、直接対決のないジェッツへトレード。こうして新天地へ移り、ニューヨークでちょっとしたブームを巻き起こしたファーヴだったが、慣れないチームとケガにも苦しみ、NFL最多の22インターセプト。8勝3敗の地区首位からプレーオフを逃すA級戦犯となってしまった。そして昨年、いったん引退する形を作ってジェッツからの解雇を勝ち取ると、( - 中略 - )夏のトレーニングキャンプが終わったところで念願のヴァイキングス入り。プロボウラー軍団に囲まれてキャリア最高の成績を残し、チームをNFC決勝に導いた。

プレーオフ敗退直後に「引退の可能性が高い」と漏らしたファーヴだが、真に受ける者はさすがに少ない。たとえ引退を決意してもいずれ気持ちは変わるので、遅くとも夏にはまた騒動が巻き起こるはず。昨日は、セインツ戦でのケガがいかにひどかったか代理人経由で証拠写真をメディアに流し(前代未聞では?)、今夏もまたキャンプをサボる口実ができた。

1. 最大の勝利はランボーフィールド大改修

53-47 ・・・というのは試合のスコアではなく、2000年9月12日に行われたブラウン郡の住民投票での得票率(グリーンベイを含む人口22万人)。老朽化したランボーフィールドを拡張し、さまざまな施設を併設して収入の道を増やし、球団の競争力を維持しようという総工費$295ミリオンの計画のためには、0.5%の売り上げ税が承認されなければならない。「このままで何が悪い」と反対する住民も少なくなかったが、住民ひとりひとりを説得して回るボブ・ハーラン社長を中心とした精力的な運動が実を結び、53%の得票率で計画はかろうじて承認された。

まもなく始まった改修工事はフィールド使用を中断することなく少しずつ進められ、内部施設も完成しだい使用が開始された。2003年夏に竣工した新ランボーフィールドは、ファンを365日引きつける強力な磁石となり、直接収入の面でも地元経済への波及効果においても、大きな成功を収めている。かつて反対した住民の多くが「改修は正解だった」と口を揃える。 ビルズやヴァイキングスなど、新スタジアム建設ができずに苦しみ、球団移転の潜在的危機にある球団は少なくない。パッカーズも数年遅ければインフレで建設費用が2倍程度にふくらんだはずで、さらに数年遅ければこの不況でどうなっていたことか。

新ランボーフィールドとはいっても変わったのは主に外側の建物部分だけで、内側のボウル部分は昔の雰囲気そのままだ。ロンバルディHCがのし歩いたフィールドも、押しくらまんじゅうの狭苦しいベンチシートも昔のまま。シカゴの新ソルジャーフィールドは新たに建て直してしまったため、「現在使用されているNFL最古のスタジアム」の称号はランボーフィールドに移っている。

もしあのとき大改修を決断していなかったら。もし住民投票で否決されていたら。収入は先細りとなってチームの競争力は保てなくなり、スタジアムはけっきょく南のアップルトンあたりに建設されていたはず(アウタガミー郡は誘致する気まんまんだった)。聖地の魅力は半減し、グリーンベイの街じたいが衰退していったことだろう。「フランチャイズを救った決断」として、ボブ・ハーラン(現名誉会長)の功績の中でも最大のものと評価されている。

カテゴリ : Coach/Front Office, History, Lambeau Field, Team/Organization