グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2008年10月26日

ある老パッカーの述懐

今季第3週はパッカーズ恒例の"Alumni Weekend"で、カウボーイズ戦のハーフタイムには多数のOBたちがフィールドに登場し、大観衆から歓呼の声で迎えられた。60年代黄金期のQBバート・スター、OTフォレスト・グレッグ、DEウィリー・デイヴィス。そして90年代のSリロイ・バトラー、RBドーシー・レヴェンズ、WRアントニオ・フリーマン。彼ら有名OBが入場トンネルから現れるたびに大きな声援が沸き上がる。しかしそんな中で、レイ・ディピエロの顔を知る者はいたとしてもごくわずかのはずだ。現在82歳のディピエロ翁がパッカーズでプレーしたのは半世紀以上前のことなのだから。

「今の選手たちはみな大きくてアスレチックだね。フットボールそのものが、私の時代とはずいぶん変わったものだ。私はオールスターでもなんでもない、普通の選手だった。それでもオハイオからグリーンベイにやってくれば、こうして大事に扱ってくれる。他の名選手たちと同じようにね。私の時代の選手で生き残っているのは、もうわずかになってしまった」

オフェンシブラインマンのレイ・ディピエロは、オハイオ州立大在学中に1年間出征し、第二次大戦が終わると復学して1948年に卒業した。最初は強豪ベアーズ(40年代に4回NFL制覇)に入団するが、開幕ロースターに残ることができず解雇。父の卸売り会社で1年間働いたところで、二度目のチャンスがやってきた。パッカーズのヘッドコーチに就任したジーン・ロンザーニの下でOLコーチとなったジョン・テイラーはディピエロの知り合いで、トライアウトに呼んでくれたのだ。

「当時のパッカーズはカーリー・ランボーHCが去ったばかりで、変化の時を迎えていた。低迷するチームを立て直そうとみな頑張っていたが、財政は苦しかった。私のサラリーは$6000ドル。在籍した2年間はどちらも3勝9敗だったが、勝っても負けても、飛行機で戻ってくると、ファンが空港で行列を作って待ってくれていた。素晴らしかったよ。当時のロースターはわずか33人で、ガードは4人しかいなかったから、私も何試合か先発できたが、決してスターなどではなかった。我々のスターといえば、HBトニー・カナデオやRBテッド・フリッシュ。私はスペシャルチームの全てでプレーした」

地味な選手だったディピエロだが、彼は球団史上の重要な場面に居合わせた。球団初の黒人選手、ボブ・マン(一昨年の記事参照)とルームメイトになったのだ。「当時は大きな話題になったよ。南部出身の選手などは、黒人選手と一緒にプレーしたことさえなかった。なぜか私が命じられて、遠征時はボブと同室になった。ボブ・マンは優れたレシーバーだっただけでなく、よきチームメイトであり、よい友人だった。彼と知り合えたことを誇りに思うよ。引退後の彼は、デトロイトで弁護士として大きな成功を収めた。彼がパッカーズ・ホール・オブ・フェイムに選ばれたとき、彼は私をプレゼンターに指名してくれた。本当に名誉なことだ」

NFL2年目の1951年は足首の負傷で5試合しか出場できず、それがディピエロの最後のシーズンとなった。「まあそういうものだよ。私のキャリアでは、自分にできることは全てやった。スピードもなく、大きくもなかったけれど、気合いと、欲望と、熱意があった。私はファイターだった」

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