グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2007年10月22日

元WRマックス・マギーが死去

50年代から60年代にかけてパッカーズのエースレシーバーとして活躍したマックス・マギーがミネソタの自宅で死去した。享年75。病死ではなく、自宅の落ち葉を掃除しようとして屋根から落ちた事故によるものらしい。チームメイトだったポール・ホーナングは、「一番の親友を亡くした。奥さんのデニースはすぐそばにいて、屋根には上るなと注意していたんだ。やめておくべきだった。ヤツはそんなことわかっているはずなのに」と悲しんでいる。

テュレーン大から1954年のドラフト5巡でパッカーズ入りしたマギーは、入団後すぐからWR兼パンターとして頭角を現し(55・56年は兵役)、1959年にヴィンス・ロンバルディがヘッドコーチに就任すると5回のNFL制覇に貢献した。また彼は、1967年1月15日にスーパーボウル史上初のタッチダウンを記録した選手としても知られている。通算345キャッチ6346yds、51TDを挙げ、1回平均18.4ydsは球団史上2位の素晴らしい記録だ。

かつてはエースとして活躍したマギーも1966年シーズンになると衰え、わずか4キャッチ91ydsと出番も少なかった。奔放なキャラクターでも知られるマギーだけに、自分には出番がないものとタカをくくり、スーパーボウル前夜にはホテルを抜け出して美人スチュワーデスとロサンゼルスの夜を満喫していた。門限破りどころか、ホテルに戻ったのは朝食の直前だった。

第1回スーパーボウルが始まり、寝ぼけまなこでRBホーナング(引退直前)と雑談していたところ、ロンバルディHCが「マギーーー!」と怒鳴り声を上げた。門限破りがバレたのかと思いきや、最初のシリーズでエースWRボイド・ダウラーが負傷退場したため、急きょ彼に出番が回ってきたのだった。ヘルメットさえロッカールームに忘れてきていたので、仲間に借りてフィールドに飛び出した。

二日酔いのマギーはここで歴史に残る活躍をしてのけた。第1Q、自分の背中に当たりそうなパスを片手でたぐり寄せるようにキャッチした彼は、そのままエンドゾーンに走り込んで37ydsのタッチダウン。このスーパーボウル史上初のタッチダウンを含め、パスキャッチ7回138yds、2TDの大活躍でヒーローとなった。

空席の目立ったこの試合がスポーツ史上どれほど重要なものになるか、(他の人々と同様)わかっていなかったマギーは、史上初タッチダウンを決めたボールをいつものように審判に手渡し、審判も何も考えずスタンドに放り込んでしまった。後になって後悔したマギーはロサンゼルスの新聞に賞金付きの広告を出して記念ボールを探したが、数十人が名乗り出てどれが本物かわからないため、けっきょく断念したという。

常に率直でウィットに富み、誰からも愛される人柄だった。敗戦直後のロッカールームで怒りに燃えていたロンバルディさえ、マギーのすっとぼけた返答に笑い出してしまうことがあった。そんな芸当ができたのは後にも先にもマギーただ1人だったという。

引退後はレストラン・チェーン経営など事業家としても成功した。また1979年から98年まで19年にわたり、アナウンサーのジム・アーウィンとのコンビでパッカーズのラジオ解説者も務めた。軽妙な語り口はファンに非常に人気があり、ウィスコンシンの Sportscaster of the Year にも10年連続で選ばれている。
マックス・マギー写真集

カテゴリ : History