グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2006年10月26日

球団史上初の黒人選手 ボブ・マンが死去

1950年にパッカーズ初の黒人選手となりレシーバーとして活躍したボブ・マンが、82歳で亡くなった。ミシガン大で無敗の全米王座に貢献した彼は、ライオンズ史上初の黒人選手として1948年にNFL入り。1950年にはQBボビー・レーン(後に殿堂入り)との交換でニューヨーク・ヤンクスにトレードされたものの解雇され、シーズン終盤にグリーンベイにやってきた。それまでにもキャンプに参加した黒人選手は2人いたがロースターには残れなかったため、彼が初の黒人パッカーズ選手となった。翌1951年には50キャッチ696yds、8TDでどれもチーム1位。1952、53年にはビリー・ホートンに次ぐ2番手だった。

野球のジャッキー・ロビンソン(1947年)の時とは比べ物にならないが、入団当時はやはり大きな話題になった、とパッカーズのチーム・ヒストリアンのリー・レメルは言う。「彼は大きくはなかったが非常に巧みなレシーバーで、優れた実績を残した。フットボールへのアプローチがとてもプロフェッショナルで、非常に威厳のある人物だった」と讃えている。 

生前にマンはパッカーズ移籍当時を振り返り、「初めて更衣室に入っていった時のことを覚えている。静まり返っていた。しかしみんなフレンドリーだったね。ほとんど全員が私のところに来て挨拶してくれた。たぶん、その最初のひとりがトニー・カナデオだったと思う。最初の練習で(エースQBの)トビン・ロートからのパスはオーバースローだったのだが、私はワンハンドでキャッチした。『ナイスキャッチ』とロートは言ってくれて、その様子から、新しいパスターゲットが出来たのを喜んでくれてるのがわかったよ。(人種による)問題など何もなかった。みんな私によくしてくれた」と語っている。

しかし遠征先ではまだ人種の壁があり、彼だけ別のホテルに泊まらなければならないことも多かった。Press-Gazette紙のアート・デイリー元記者のお気に入りのエピソードがある。ボルティモア遠征のホテルは黒人お断りだったため、ミーティングが終わると、チームメイトの大型ラインマン(白人)と一緒にホテルの外に出てタクシーを呼んだ。「黒人は乗せらんないよ」と運転手が言うので、その大型ラインマンは運転手の襟首をひっつかみ、「どこへでもコイツの好きなところへ乗せて行け」と命じて解決。そのチームメイトの名はディック・アフィルスといい、後に"生傷男" ディック・ザ・ブルーザーとして人気プロレスラーとなった。

常に冷静沈着な個性で知られたボブ・マンは、1954年に引退してから法律を学んで弁護士となり成功、デトロイトで弁護士事務所 "Robert Mann & Associates" を30年以上にわたって率いた。ライオンズでのチームメイト、ウォリー・トリプレットはこう振り返っている。「ボブは静かな男で、独特の乾いたユーモアのセンスがあった。どんな状況でも、ユーモアを見つけ出すことができた。非常に洞察力が鋭く、穏やかな気性の持ち主だった。そういったところが、フットボールでも、法律の世界でも、大いに役立ったに違いない」

1988年にはパッカーズ・ホール・オブ・フェイム入りを果たし、デトロイトでも地元コミュニティに貢献しながらライオンズOBとして熱心に活動した。2002年9月22日、フォード・フィールド完成後初の公式戦で、彼はライオンズOB代表として名誉キャプテンを務めた。その日の対戦相手もまた、彼の古巣のグリーンベイ・パッカーズだった。

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優れたレシーバーとして活躍   今月15日にもフォード・フィールドで
元気な姿を見せたばかりだった
カテゴリ : History