グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2005年7月21日

ランボーフィールドの場内アナウンサーが引退

1964年から40年間にわたってランボーフィールドの場内アナウンサーを務めてきたゲイリー・カナフェル Gary Knafelc が、このほど引退することになった。有名な1967年のアイス・ボウルで、QBバート・スターがエンドゾーンに飛び込んだ時、 "Bart Starr. Quarterback Sneak. Touchdown. Champions." とシンプルかつ感動的なアナウンスをしたのも彼だった。

1954年から62年までの9シーズン、WRおよびTEとしてパッカーズでプレーしたカナフェルは、通算2162yds、23TDと決して大スターではなく、63年に1年だけ49ersでプレーして現役を退いた。そんな彼だが、独特の勝負強さがあり、素晴らしい球団記録を2つ保持している。1956年に旧シティ・スタジアム最後のタッチダウンを決め、翌57年にランボーフィールド最初のタッチダウンを挙げたのが一つ。

もう一つはいわば非公式記録だ。1955年のライオンズとの開幕戦、試合終了直前にQBトビン・ロートからの高くハードなパスを見事にキャッチして28ydsの逆転TDを決めた彼は、フィールドに雪崩れ込んできた観衆にかつぎ上げられて旧シティ・スタジアムから退場した(写真)。旧シティ・スタジアムとランボーフィールドの歴史を通して、観客にかつがれて退場した選手は彼ひとりしかいないのだ。「あの時は、ある子供から50セントもらったよ」

カナフェルは強度の吃音を克服するため、オフシーズン(安い給料のためにオフは副業をする者が多かった)には、ビールのミラー社のPR部門で働いたり、さまざまなスピーチや司会の仕事を経験した。努力の甲斐あって、引退するとすぐに、パッカーズのロンバルディHCから場内アナウンサーの声がかかった。仮採用となった彼は、1964年夏のキャンプで試合形式のスクリメージ練習を実況することになった。すぐ隣のプレスボックスには、ロンバルディHCが陣取った。

QBバート・スターからのピッチをRBポール・ホーナングが受けてロングゲインしたプレーを、カナフェルは「"Peerless" Paul Hornungのキャリーでした」と洒落た形容詞を付けてアナウンスした。すると隣のボックスから、折り畳みイスを壁に投げつける音がして、ロンバルディHCがこちらに突進してきた。そしてクナフェルクに指を突きつけ、「たわ言はいいかげんにしろ!」と怒鳴りつけたのだ。「コーチ・ロンバルディは、ただ事実が聞きたかったのさ。美辞麗句じゃなくてね。だからあれ以来ずっと、私はこのような(潤色を極力抑えた)やり方をしている」

絶対権力者を怒らせては就職も失敗かと覚悟したが、幸いロンバルディHCからは正式なアナウンサーのオファーを貰った。「考えるよりも前にイエスと答えてしまったよ。それぐらい、彼にイエスと答えることに慣れきってしまってたんだ。コーチ・ロンバルディにまともに話せる人などいなかった。誰もね」とカナフェルは懐かしそうに振り返る。こうして、長い長い第二のキャリアがスタートした。場内アナウンサーの仕事に加え、学用品の会社や事務用家具およびインテリア・デザインの会社も経営してきた。

試合開始2時間半前に到着し、選手名の発音を確認するカナフェルだが、苦手な名前というのはやはりある。「十数年前のノーズタックル、Esera Tuaoloが一番苦手だったね。2年かけてようやく大丈夫になったと思ったら、彼は解雇されてしまった。最近だとカビーア(バジャ=ビアミラ)かな。今はうまく言えるようになったけれど、いつだって大変だ。セントルイスにも2人いるね。Pisa Tinoisamoa と Brandon Manumaleuna」

時代が進むにつれて、原稿の量は大幅に増え、試合当日のアナウンサーの仕事はより過酷になってきた。読まなければならないコマーシャルは以前の5倍にもなり、さまざまなイベントも増えた。「もう大忙しだよ」とカナフェルは言う。こうして73歳のカナフェルは、40年目を終えた今オフ、ボブ・ハーラン社長に引退を告げた。「せっかくフロリダに家があるのに、娘や孫とホリデーシーズンをそこで過ごせないのもつまらないしね」

すでに1976年に、カナフェルはパッカーズの殿堂入りに選ばれている。ハーラン社長は、カナフェルが去ってもホームゲーム全試合で彼のためにプレスボックスを用意しておく、と語っている。「今後もチームの一員だと彼には思っていてほしい。かつてチームに貢献してくれた人々を、パッカーズは決して忘れない。彼らはファミリーの一員であり、ゲイリーもまたファミリーの一員なのだから」

カテゴリ : History, Lambeau Field