グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2005年3月 8日

リー・レメルの60年

昨年、パッカーズの"Team Historian"に任命されたリー・レメルは(昨年2月の記事参照)、Press-Gazette紙の記者、そしてチーム広報担当のキャリアを通算すると、パッカーズとの付き合いは60年。1996年にはパッカーズの殿堂入りも果たしている。チーム史のまさに生き字引、80歳にして現役を続けるレメルのキャリアを振り返る。

1924年、グリーンベイの西北に位置する人口3000人のシャワノ市で、リー・レメルは生まれた。父親は熱心なパッカーズファンだったが、レメル本人は「私はどちらかというと野球のシカゴ・カブスが好きで、皿洗いの時はそちらのラジオを聴いていたな」と言う。10歳の時、彼はてんかんのような発作に見舞われ、やがて脳腫瘍と診断される。15歳の時に大きな手術を2回受け、さいわい手術は成功したが、この病気のために2年遅れての高校入学となった。

「高校に入ってすぐにわかったのは、アスリートたちにはカノジョができる、ということだった。そこで、スポーツができないなら、スポーツ記者になるのがいい、と私は思ったんだ」とレメルは笑う。高校1年ながら地元紙 Shawano County Journal に記事を書かせてくれと頼み、記事1本につき75セントで、自分の高校のスポーツの記事を書くようになった。コラムはさらに50セント。まだタイプライティングを覚えていなかったので、記事は手書きだった。毎週$1.25ドルを稼ぐ小さなスポーツ・ジャーナリストが誕生した。

高校2年になると、Green Bay Press-Gazette紙のシャワノ郡の通信員をアシストして、高校スポーツを担当するようになった。その通信員が本社に戻ると彼はシャワノ郡通信員の仕事を引き継ぎ、スポーツだけでなく市議会や裁判など一般のニュースも扱うようになった。「16歳の少年にとっては大変なチャンスだったね。高校3年の時には、有名な殺人事件も担当できた。私はこうして仕事を学んだ。定収があったのも嬉しかった」

1944年に高校を出ると、彼は大学への奨学金を断り、Press-Gazette紙でフルタイムで働くようになった。「私が新米記者だった時、隣の机にいたのが、あのジョージ・カルフーンだった。そう、1919年にパッカーズ設立を呼びかけた、あのカルフーンだ(チーム史参照)。当時assistant telegraph editorだった彼が私に、パッカーズのプレスブックを書かないか、と聞いてきたんだ。『報酬は何です?』と聞くと、『10ドルとシーズンチケット2枚だ』と彼が言う。 『いいでしょう』と私は答え、それ以来ずっとパッカーズについて書き続けている」

こうしてスポーツ記者としてのキャリアを始めたレメルは、1967年には "Wisconsin Sportswriter of the Year"も受賞した。記者人生の中で彼がインタビューした人物を列挙すると、ジェシー・オーウェンス(陸上100m金メダリスト)、ジョー・ルイス(ボクシング)、ドン・ハトソン(チーム史参照)、ウォーレン・スパーン(363勝投手)、ハンク・アーロン(ホームラン王)、ペギー・フレミング(フィギュアスケートの女王)、レオ・ドローチャー(ドジャースの名監督)、ジョージ・ハラス(ベアーズ創立者・ヘッドコーチ)、ピート・ロゼール(NFLコミッショナー)、ドン・シュラ(ドルフィンズの名HC)、そしてヴィンス・ロンバルディ。

初代のカーリー・ランボー以来、リー・レメルは全てのヘッドコーチとつきあってきた。やはり印象深いのはヴィンス・ロンバルディだ。1965年のトレーニング・キャンプのある日、彼は公衆の面前で八つ当たりの標的にされたことがあるという。「いつも通りの練習を見ていると、2ミニッツドリルで、控えQBブラコウスキーが2つ連続でインターセプトを投げた。するとロンバルディは、500人が見ている前で、『くだらないことを書かずに独自の記事を書かんか!』と私に怒鳴りつけたんだ」

憤慨したレメルは練習後に、タオルを巻いてロッカールームから出てきたロンバルディに向かって抗議した。「翌日ダラス遠征に向かう飛行機に、私は乗せてもらえないかと思ったが何事もなかった。さらに翌日の試合前のロッカールームで、ロンバルディは私のところに来て、『君の記事がオリジナルじゃないと言ったのは申し訳なかった。君は私が知る限り最高の記者だ』と静かに言ってくれた。それがあの事件の真相だよ」

レメルが最も誇りにしていることの1つが、スーパーボウル全試合をその目で見てきたことだ。ジャーナリスト、カメラマン、NFL関係者の中で、1967年以来全てに参加したのはわずか12人。80歳のレメルは、今年もジャクソンヴィルで39回目のスーパーボウルを取材した。「スーパーボウルで仕事をしていて楽しいのは、他のメディアの連中と交流ができることだね。第1回のスーパーボウルでは、メディア関係者は338人、スタンドには30,000人分の空席があった。今では、3,410人のメディア関係者が世界中から集まってくる。このようなプロスポーツ最大のイベントに成長しようとは、最初の時には想像もできなかった」

フットボール史の生き証人であるレメルは、現役のパッカーズ選手たちからも非常に慕われている。「パッカーズとその歴史に関する彼の知識は、まったく信じられないほどだね。僕は長きにわたって、素晴らしい話をたくさん聞かせてもらったけど、まだまだ新しい話が出てくるんだから。ドン・ハトソン、バート・スター、レイ・ニチキ。それに、彼が知ってるQBたちの話を聞くのも面白いね」とQBブレット・ファーヴは言う。

「リーとのつきあいはじめの頃、彼は僕のことを、(ミドルネーム付きで)ブレット・ロレンゾ・ファーヴと呼んだんだ。面白かったから、こっちも、『リーランド・J・レメル』とお返しをした。彼とふざけあうのは本当に楽しい。亡きレジー・ホワイトも同じように楽しんでいた。選手みんながそうさ。彼がロッカールームや遠征の飛行機に一緒にいて、選手たちと楽しんでいるのを見るのは素晴らしいよ」

チームの広報担当としては第一線を退いたレメルだが、パッカーズ公式サイトへのコラム寄稿、さまざまな慈善活動、そして愛妻との旅行など、なかなか忙しい毎日を送っている。本も執筆する予定だ。「私は何事も変えてはいない。グリーンベイ・パッカーズの一員となれてとても幸運だったし、感謝している。この歳になれば多少はスローダウンすべきかもしれないが、私はチームをとても大事に思っているし、仕事を楽しんでいる。キャリアを通じて、私はずっと幸運だった・・・。ウィスコンシン州シャワノ出身のガキにしては、悪くないよ」

カテゴリ : History, Team/Organization