グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2004年5月17日

バド・リー記者とパッカーズの50年

Milwaukee Journal Sentinel紙のコラムニストのBud Lea氏が、パッカーズを担当して50周年になったのを記念して回顧録的なコラムを書いています。あまりに長いので一部省略になりますが、おつきあいください。

50年前。 MLBのブレーブスがボストンからミルウォーキーに移転してくるのに合わせて、Milwaukee Sentinel紙はスポーツ部門を拡張することになった。当時、まち最大の話題はそのブレーブスのことであり、朝刊紙Sentinelも夕刊紙Journalも、多くの人員をそちらに注ぎ込んでいた。

私はまだ下っ端で、メジャーリーグに加わったような大きな街で仕事ができるだけで嬉しかった。Sentinel紙のスポーツ・デスクに午後4時から深夜1時まで張り付いて、ブレーブスに関する、ライターやコラムニストの記事を編集するのが仕事だった。 この50年代前半は、まだプロよりもカレッジフットボールの方が人気があり、52年にローズボウルに出たばかりのウィスコンシン大が、記者たちの人気部署だった。この時期はマーケット大もなかなか強かった。

パッカーズ? '53年には2勝9敗1分の体たらくで、ジーン・ロンザーニHCが首になったところだった。当時は、ホーム6試合のうち3試合をグリーンベイの旧シティ・スタジアムで、3試合をミルウォーキーの新しいカウンティ・スタジアムで行っていた。 パッカーズは人気部署ではなく、じっさい誰も担当したがらなかった。'54年の夏の日、スポーツ部の編集長ロイド・ラーソンが私をオフィスに呼んだ。「パッカーズの方に手を貸してほしいと思っているのだ」

彼のこの言葉が、私の運命を決めた。この話し合いが、自分の人生を方向付けてしまうことになるとは、その時は思いもしなかった。私は文字通りあたふたして、まず私にとって最初の車、ビュイック・スペシャルを買った。$2,263ドル。グリーンベイまで通う足が必要だったからだ。

私は、Sentinel紙スポーツ部の中で、パッカーズに詳しい数少ないスタッフだった。グリーンベイで生まれ育ち、父にはよくシティ・スタジアムに連れて行ってもらったものだ。ドン・ハトソン、アーニー・ハーバー、クラーク・ヒンクル、トニー・カナデオなど、最高の選手たちを見て育った。 そして'54年に私がパッカーズを担当することになった時、自分はこの新聞で最高の部署を与えられたと思った。グリーンベイ出身の自分が、州最大の新聞で、一番好きなチームを担当できるのだから。

40年前。 パッカーズはこの新聞で一番の人気部署になっていた。ヴィンス・ロンバルディはチームを強豪に育て上げ、グリーンベイでもミルウォーキーでも観客動員記録を塗り替えていた。ブレーブスは観客動員が振るわないためアトランタへの移転を検討。ウィスコンシン大は弱くなり始めていた。

この'64年の最大の話題は、コミッショナーのピート・ロゼールがパッカーズのHBポール・ホーナングとライオンズのアレックス・カラスの出場停止処分を1年で解除したことだった。どちらもフットボールの試合で賭けをしたという罪だった。

ホーナングがリーグから一時追放された日、私はロンバルディHCのコメントを取ろうと一日中電話をかけたが、つかまらなかった。ところがそのころ、私の妻(同新聞に務め、女性会議の取材をしていた)は、たまたまパッカーズのオフィスに立ち寄り、ロンバルディに会っていたのだ。私は全く知らなかった。翌日ようやくロンバルディと連絡が取れたとき、ロンバルディは「君がなぜそんなに怒っているのかわからんよ。昨日は君の奥さんと昼食を食べたんだ」

30年前。 ダン・デヴァインHCが6勝8敗シーズンのあとで辞任した。しかし彼はバート・スターHCやフォレスト・グレッグHCやリンディ・インファンテHCにできなかったことをした。72年、10勝4敗で地区優勝に導いたのだ。しかしその功績も、QBジョン・ハドルを獲得したトレードの件で、すべてが台無しになった。 34歳のQBジョン・ハドルをラムズから獲得するために、1巡を2つ、2巡を2つ、そして3巡、合計5つものドラフト上位指名権を譲ってしまった。グリーンベイ史上、いやNFL史上でも最も不均衡な、馬鹿げたトレードとして、よく知られているところだ。

20年前。 私も年を取り、自分が取材した選手たちがヘッドコーチとなるような時代になった。フォレスト・グレッグHCは過去24年間で最悪の4勝12敗という成績で、'87年限りで辞任。誰にもひとことも言わずにチームを去り、母校サザンメソジスト大に戻って行った。

「その相手について良いことを書けないようなら、何も書くべきじゃない」と、よく母に言われたものだ。しかし母は、ジェームズ・ロフトンやモッシー・ケイド、チャールズ・マーティンに会ったことはなかったはずだ。ロフトンとケイドは性的暴行で起訴され(ロフトンは後に無罪)、マーティンもバーで女性を相手にトラブルを起こした。

10年前。 パッカーズは、プライドとチャンピオンシップを取り戻す途上だった。ロン・ウルフGMとマイク・ホルムグレンHCのリーダーシップの下で、チームはまとまり、3年連続勝ち越しを続けていた。

(ミルウォーキーでのホームゲームは1994年限りのため) ミルウォーキーでの最後の試合、25歳のブレット・ファーヴはファルコンズ相手に、信じられないような4点差の逆転勝利を収めた。終了14秒前、彼がエンドゾーンに体ごと飛び込んだとき、(2001年に取り壊されることになる)古ぼけたカウンティ・スタジアムは、かつてなかったような爆発的な興奮に包まれた。

ブレット・ファーヴの取材をできるのは何という喜びだろう。

最近はプレス席に座っているのもちょっと変な感じがする。まわりを見回し、若い記者連中の格好を見て思う。「このチンピラたちは何だ?」 でも実際は向こうの方が、「あの時代遅れのジジイは何だ?」と思っているに違いない、と気が付いた。だから、私は座って仕事を続け、口を閉じて、自分の幸運を数えるのだ。これまで50年間もパッカーズの仕事をできた幸運を、そして今も続けていられることの幸運を。

カテゴリ : History