グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2003年12月 1日

殿堂入りRBトニー・カナデオが死去

クリックすると拡大します1940年代にパッカーズで活躍した名ランニングバック、トニー・カナデオTony Canadeo が亡くなった。84歳だった。土曜日の午後、グリーンベイの自宅で倒れたカナデオは、その後 St. Mary's Hospital に運ばれ、そこで息を引き取った。直接の死因は発表されていないが、30年ほど前に息子からの腎臓移植を受け、特にここ数ヶ月は体調がすぐれなかったとのこと。

1919年にシカゴで生まれたトニー・カナデオは、ゴンザガ大から1941年のドラフト9巡でパッカーズ入り。若白髪のために、ニックネームは"Gray Ghost"。第二次大戦への従軍をはさんで1952年に引退するまで、タフなランニングバックとして活躍を続け、オールプロに4回選ばれている。ラッシングだけでなくブロッキングやパスレシーブにも優れ、リターナーとしても活躍した。1974年にNFLの殿堂入りし、背番号3はパッカーズの永久欠番となっている。

プロ入り直後の3年間は偉大なWRドン・ハトソンとともにプレーしたが、華麗で洗練され、カリスマ的なハトソンに対し、ガッツ溢れるプレースタイルで、親しみやすい人柄のカナデオは好対照をなしていたという。ハトソンの引退した40年代後半、カナデオの才能がさらに花開いた一方でパッカーズの成績は下降線をたどり、カナデオは孤軍奮闘でチームを支えていた。現在ではチーム史上4位のラッシング記録4,197ydsだが、彼こそチーム史上最高のRBだと考える人も多い。

「彼はグリーンベイで最高のRBの一人だ。彼がいかに素晴らしい選手だったかはリーグじゅうから認められていた。ボールキャリーやパントリターンだけでなく、キャッチもうまかった。誰からも好かれるヤツで、世界中に敵なんて一人もいなかったよ。グリーンベイ史上最も好かれた選手であり、素晴らしいフットボール・プレーヤーだった」と、チームメイトで親友のトム・ミラーは語っている。

引退後もカナデオはパッカーズに大きな貢献を続けた。パッカーズ戦放送の解説に加え、1955年にチームの理事会の一員に。1958年には、さらに上の"executive committee"のメンバーとなった。1959年にヴィンス・ロンバルディを新ヘッドコーチを選んだ際に、ジャイアンツのオフェンシブ・コーディネーターだったロンバルディとの面接を行ったのも彼だった。同じイタリア系のロンバルディとはその後、非常に親密な友人関係を築き、ロンバルディの死後も家族ぐるみでのつきあいは続いた。

1982年にはチーム副社長にまでなったカナデオは、体を悪くして一線を退いたあとも、名誉理事としてパッカーズをサポートし続けた。体調の許す限りスタジアムで観戦し、チームの勝敗に激しく一喜一憂していたという。半世紀以上にわたって地元ファンから親しまれた彼は、最後までチームを象徴する人物の一人だった。

カテゴリ : History