グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2003年4月11日

ベアーズのエド・マキャスキー氏が死去

長きにわたってベアーズの実質的オーナーであったエド・マキャスキー Edward W. McCaskey が死去。83歳だった。エド・マキャスキーは、ベアーズ創設者のジョージ・ハラスの娘、ヴァージニアと1943年に結婚。1967年から義父を助けてベアーズの副社長兼財務責任者に。1983年にジョージ・ハラスが没すると、名目上のオーナーは娘のヴァージニアとなるが、その夫のマキャスキーがチェアマンとして実質的な支配権を握ることになった。

名RBゲイル・セイヤーズとRBブライアン・ピッコロ(のちガンで夭逝)の2人を、チームで初めて人種の壁を越えてルームメイトにしたのも、副社長時代の彼がハラスに進言してのことだったという。ピッコロがガンとの闘いの末、亡くなるときもマキャスキーは親身になって家族を支え、のちの "ブライアン・ピッコロ・ガン研究基金"の設立にも彼の尽力が大きかったとのこと。

彼は古き良きオーナーの典型としてチーム内外で人望が厚く、優れたリーダーシップを発揮して、父親のようにしてチームを支えてきた。ただ、実際の球団運営を任された息子のマイケルは、成功したとはとても言い難く、ベアーズの長期低迷の原因を作ってしまった。1999年、ついにマイケルはチェアマンとなって実権をテッド・フィリップス社長に譲り、エド自身も名誉チェアマンに退いていた。

エド・マキャスキーとヴァージニア・ハラス・マキャスキーは、つい2ヶ月前に結婚60周年を迎えたばかり。ヴァージニアは健在であるため、エドの死によってすぐにオーナーシップが揺らぐことはないが、「息子たちはベアーズを売却したがるのでは」という噂も一部にはある。

若いころ歌手志望だったエドは、フィラデルフィアの高校を出た後、あるバンドに入れてもらう約束をするが、バンドは別の歌手を雇ってしまう。憤慨したエドに、マネージャーは「心配するな、あいつはそう長く続かない」と慰めるが、その歌手とは若き日のフランク・シナトラだった。

夢破れたエドはペンシルバニア大に進学し、そこでヴァージニアと出会う。娘が男とデートをしていることを知ったジョージ・ハラスは、NFLでの友人を2人、エドの調査によこした。調べに来たその2人とは、スティーラーズの現オーナー、アート・ルーニーと、後のNFLコミッショナー、バート・ベル(PHIとPITのHCも)だった、というエピソードも残っている。

1942年のNFL決勝のレッドスキンズ戦、エドとヴァージニアの2人は、父ジョージ・ハラスに結婚の許可をもらうため、スタジアムに来ていた。エドは、このファミリーにとってフットボールがどれほど大事なものか、この時思い知らされたという。敗戦が確定的になるとヴァージニアは泣き出し、エドが「どうしたんだ。ただのフットボールの試合じゃないか」と言うと、「もしベアーズが負けたら、父は決して結婚を許してくれないってことがわからないの?」とヴァージニアは言ったという。じっさいその通りの結果になり、2人は駆け落ち同然にして結婚しなければならなかった。

エドは第二次大戦に一兵卒として入隊してフランスで戦い、青銅星章をもらって、除隊する時には大尉に昇進していた。 アイルランド系であることを誇りにし、優れたユーモアの持ち主で、歌と、サラブレッドと、何よりもシカゴ・ベアーズを愛した人であったという。

カテゴリ : History, NFL