グリーンベイ・パッカーズ ニュース

2002年7月19日

Sリロイ・バトラーが現役を引退

「今は誰もヒットできないんだ。骨折したあたりには神経が通っている。もしそこで神経が断裂するようなことがあると、左半身が麻痺してしまうことになる。選択の余地はない。バスケも、ソフトボールも、ゴルフも、何だって出来るけど、フットボールだけは出来ないんだ。仮にそれが25歳の選手であっても、プレーは許されないはずだ」

バトラーを引退に追い込んだ肩甲骨の骨折はしかし、いずれは治る性質のものだ。シーズン序盤はプレーできなくても、中盤のどこかで復帰することなら可能だったのではないか? しかし、もし全試合出られないのであれば、彼はプレーする気はなかった。「こんな状態の自分のために、ロースター枠を確保するのはわがままだよ。若い連中にチャンスをやるべきなんだ。たくさんの人が、『引退するな。もう少し様子を見ろ』と言ってくれるけれど、僕はそういうタイプの人間じゃない」

あと2つのインターセプトを決めれば、バトラーは史上初の「40インターセプト・20サック」を決めたNFL史上初めての選手になるところだった。しかし毎年のようにサラリーカットを受け入れてまでパッカーズのために尽くしてきた彼にとって、個人的な目標や、目先のサラリーのためにチームのサラリーキャップを圧迫することは考えられないことだった。

バトラーのキャリア

リロイ・バトラーはフロリダ州ジャクソンヴィル出身。フロリダ州立大では3年間スターターを務め、最終年にはオールアメリカンの1stチームに選ばれている。1990年のドラフト2巡指名でパッカーズ入り。2年目の'91シーズンから先発に定着し、リーグを代表するセーフティの1人として活躍した。プロボウル出場は4回。また、NFLの殿堂が選ぶ「オール'90年代」の1stチームにも選ばれている。

ウルフGM・ホルムグレンHC以前のパッカーズを知る唯一の選手だった。リンディ・インファンテ、マイク・ホルムグレン、レイ・ローズ、マイク・シャーマンの4人のヘッドコーチの下でプレーした。昨年11月の大ケガでシーズン後半を棒に振るまでは、わずか4試合しか欠場せず、116試合連続出場中だった。通算試合出場は181試合。あと16試合で、QBバート・スターの記録を破ってパッカーズ史上1位になるはずだった。

プレースタイルは"頭脳的"ということに尽きる。 身長は6フィート弱で、さほど大きくもなく、スピードもメチャクチャ速かったわけではない。読み・勘・嗅覚に優れていた。全盛期には、絶妙のタイミングで飛び込むブリッツによって相手QBを恐怖に陥れた。やや衰えたこの数年は、そのような派手な役割をダレン・シャーパーに譲ったが、相手の動きを見て的確に指示を出す「ディフェンスのQB」としての存在感は、余人をもって代えがたいものがあった。

常に選手の先頭に立ってメディアに話をする、スポークスマン的な存在でもあった。 もともと話し好きだったこともあって、記者たちからも非常に愛され、また重宝された。常に"We"という言葉を使い、チームの勝利を何よりも優先する態度を貫いた。もちろんファンからの支持は絶大だった。

また彼は"ランボー・リープ"を発明したことでも知られる。 1993年12月26日のLAレイダーズ戦、SSバトラーはRBランディ・ジョーダンをハードタックルしてファンブル・フォース。そのボールをDEレジー・ホワイトが拾い、10ヤード走ったところで相手にサイドラインに押し出されそうになった。素早く立ち上がって再び走ってきたバトラーに、レジー・ホワイトがボールを渡し、バトラーはそのまま左ライン際を駆け上がってキャリア初のタッチダウン。その勢いでスタンドに飛び込んだのが、史上初の"ランボー・リープ"だったのだ。

フォレスト・ガンプ

17日夜、リロイ・バトラーはグリーンベイの自宅に50人の友人を招いて、12年のキャリアを終えたことの"お祝い"をしたのだと言う。「そりゃあ、お祝いだよ。本当に楽しかった」とバトラーは心からの笑顔で答える。その笑顔の理由は、彼の子供時代にある。

子供の頃の彼は、まるで映画の「フォレスト・ガンプ」のように脚をギプスで固め、一生走れずに終わる可能性もあったのだという。脚が弱いため、ごく短い距離しか自力で歩けなかった。車椅子を使うことさえあった。しかし中学1年生になるころから脚は良くなりはじめ、そして多くの困難を克服して、ここまでのキャリアを築いたのだ。これを祝わずにいられるだろうか。

「突然の引退で悲しいなんてとんでもないよ。こんなに長くここにいられるなんて思ってもいなかったんだ。子供のころ、車椅子に座って『キックボールが出来たらなあ』なんて思っていたのを思い出すよ。そしてついにフットボールをやれるようになった時は、ただただ嬉しかった。高校に入って競争できるほどになった時は、自分はなんて幸運なんだろうと思ったよ。これまでプレーできて本当に楽しかった。だから、12年しかプレーできなかったからといって腹を立てるのは、わがままってもんさ。12年も1つのチームでプレーできるなんて素晴らしいじゃないか」

親友ファーヴについて

バトラーがディフェンスのリーダーである間、オフェンスのリーダーがQBファーヴだったのは言うまでもない。「それは僕らにとって競争みたいだった。彼がTDパスを決めると、『さあ今度はそっちがインターセプトを決める番だ』と彼が言い、僕がインターセプトを決めると彼に『今度はそっちがTDパスを決める番だ』と言うんだ」とバトラーは懐かしく振り返る。

「彼は親友だ。僕が引退のことを電話でファーヴに告げたとき、彼はボウリングをしているところだった。彼はまるで兄弟を失ったみたいに悲しんでくれた。彼は僕をとても尊敬してくれた。僕は声を出してチームをリードし、彼はフィールド上のプレーでチームを引っ張る。それは素晴らしかった」

「僕はコンサルタントとして何かチームの役に立ちたいと思っている。それにはまだシャーマンHCと話し合わなきゃいけないけど、それはチームのみんなも望んでくれていることなんだ。ブレットも『チームと一緒にいてくれるんだろう?』と言ってくれた」

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