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リンディ・インファンテ時代

フォレスト・グレッグの後任ヘッドコーチに選ばれたのはリンディ・インファンテLindy Infanteでした。彼はマーティー・ショッテンハイマーHC率いるブラウンズでオフェンシブコーディネーターを務め、QBバーニー・コーザーを中心にNFL3位の強力オフェンスに貢献。80年代初めには、ベンガルズのフォレスト・グレッグHCの下でQBコーチとしてQBケン・アンダーソンを擁し、スーパーボウルにも出場しています。オフェンスの優れた頭脳と期待されてのヘッドコーチ就任でした。

1988年のパッカーズはドラフト1巡でWRスターリング・シャープを獲得(後述)。しかし主力6人がキャンプをホールドアウトしたことが響き、開幕5連敗を喫するなど、前年より悪い4勝12敗でシーズンを終えます。オフェンスがスランプで完封負けが3試合、とくにラン攻撃の不振が深刻で、ランが100ydsに届かないゲームが12試合もありました。当初先発QBに選ばれたランディ・ライトも不振やケガに苦しみ、最後にはドン・マコウスキーが先発の座を固めています。

Lindy Infante QB Don Majkowski

完全なフリーエージェント制度を要求し続ける選手会に対し、妥協案として1989年に導入されたのがプランB・フリーエージェントの制度。球団は47人ロースターのうち最大37人を指定してプロテクトでき、契約が切れて37人リストから漏れた選手だけが、完全なフリーエージェントとして移籍の自由を与えられます。契約が切れてプロテクト対象に指名された選手は、他球団と交渉はできますが、所属チームはその金額にマッチすることで引き留めが可能(現在の制限付きFAに似ている)。

プロテクトされない選手はどうしても低レベルですが、1989年春のパッカーズはこのプランB・フリーエージェント制度を利用してリーグ最多の20人を獲得。いかにチームのタレントレベルが低かったかがわかります。なおこの制度は1992年9月に法廷で反トラスト法違反とされ、翌1993年春から完全なフリーエージェント制度が施行されます。90年代のオフェンシブラインを支えるCフランク・ウィンタースも、プランB・フリーエージェントとして1992年春に移籍してきた選手でした。

WRスターリング・シャープとOTトニー・マンダリッチ

1986年から3年連続でプロボウラーなしとスター不在だったパッカーズにとって、サウスカロライナ大から1988年ドラフト1巡7位指名で入団したWRスターリング・シャープ Sterling Sharpeは、チームの至宝といってもよい存在となりました。密集をものともしない恐れを知らぬプレースタイルでフィールド中央を切り裂き、ハードヒットを喰らっても決してボールをこぼさず、平気な顔で立ち上がります。

1年目からスターターとしてチームトップのレシービング成績を残し、のちのQBファーヴ時代初期まで、パッカーズのパスオフェンスを事実上ひとりで支えていくことになります。現役わずか7年間で通算パスキャッチ595回8134yds、65TD、NFL最多キャッチ3回、プロボウル5回、オールプロ5回。シーズン112レセプション(1993年)、18TD(1994年)は今でも球団記録です。(通算スタッツ

残念ながら首のケガのため、1994年かぎりで早期引退(まだ29歳)を強いられましたが、あと数年プレーできていれば、殿堂入りは間違いなかったところ。「彼が球団史上最高のレシーバーか」となると活躍期間が短いので難しいでしょうけれど、「球団史上で3人選べ」と言われたら、誰もがドン・ハトソンジェームズ・ロフトン、そしてこのスターリング・シャープを挙げることでしょう。気難しく扱いにくい個性で地元メディアを手こずらせましたが、引退後は解説者として活躍しています。

WR Sterling Sharpe
独特の雰囲気を持ったレシーバーだった
Don Majkowski, Sterling Sharpe
RB Brent Fullwood

こうして大エースWRの獲得に成功した翌年、1989年のパッカーズはドラフト1巡2位でミシガン州立大のOTトニー・マンダリッチ Tony Mandarichを指名。NFLでの成功確実ともてはやされ、QBトロイ・エイクマンのどちらが1位になるかと議論されたほどのスーパースターでしたが、あの素晴らしい体を作り上げていたのは遺伝子でも努力でもなく、ステロイドの力でした。

ドラフトのころから薬物の噂は絶えませんでしたが、入団後すぐから期待ハズレであることが明らかになります。検査を恐れてステロイドを使わなくなったうえ、アルコールや鎮痛剤の依存でフットボールどころではなく(2008年の告白記事へ)、2年目に右タックルでスターターになるのがやっと。その後も鎮痛剤依存から立ち直れない彼のプレー内容はパッとせず、わずか3年間でパッカーズを退団となりました。4年間フットボールを離れた間に薬物リハビリを終え、1996年にコルツでNFLに復帰。先発右タックルと右ガードを3年間務め(悪くない内容でした)、キャリアを終えています。

OT Tony Mandarich
入団直後
OT Tony Mandarich
右タックルでかろうじてスターターに

いま振り返ると1巡2位マンダリッチの前後には、1位QBトロイ・エイクマン、3位RBバリー・サンダース、4位LBデリック・トーマス、5位CBディオン・サンダースと殿堂入り選手がひしめく大豊作だっただけに、パッカーズとしてはやりきれない失敗でした。このマンダリッチはドラフト史上屈指のバストであり、パッカーズに限れば球団史上最悪の失敗といえるでしょう。トム・ブラーツGMが最もOTマンダリッチに惚れ込み、インファンテHCはRBバリー・サンダースの方を望んでいたともいわれています。

Sports Illustrated 1989年4月24日号
(ドラフト直前)
Sports Illustrated 1992年9月28日号
(プロ入り4年目)

ボブ・ハーランが社長に

1989年6月、パッカーズは一見地味ながら重要な転機を迎えます。ロバート・パリンズの退任に伴って、副社長のボブ・ハーラン Bob Harlanが社長に昇格したのです。野球のセントルイス・カージナルスで広報部長をしていたハーランは、1971年にダン・デヴァインHCの誘いアシスタントGMとしてパッカーズに加わりました。その後、社長補佐を経て上級副社長に昇格し、入団18年目でついに社長昇格。アイオワ出身の彼は、球団史上初めての地元出身以外の社長でもありました。

2008年1月に名誉会長へと退いたボブ・ハーランの19年間の業績は、まさに偉大というほかありません。90年代のパッカーズ復活とスーパーボウル制覇、ミルウォーキー撤退(1994)、屋内練習場ドン・ハトソン・センター建設(1997)、株式発行(1997-1998)、新ランボーフィールド建設(2000-2003)など、彼の下した重大な決断の数々が、その後の繁栄と財政の安定をもたらしたといっても過言ではありません。そもそも彼がロン・ウルフGMを選んでいなければ、QBブレット・ファーヴやDEレジー・ホワイトの獲得もスーパーボウル制覇もなかったのですから。

ハーランの功績はそうした目に見えるものばかりではありません。少々近寄りがたかった前任者たち(オレニチャックは元市長、パリンズは判事)とは違い、気さくで親しみやすく人好きのする個性を活かして、ファンや地元民と密接にかかわっていく率直で開かれた球団運営。現場に口を出さず理事たちにも口を出させず、信頼するGMにフットボールのことをすべて任せる、といったシンプルな指揮系統も、今に受け継がれています。「電話は秘書に任せず自分で取る」という就任時の約束を最後まで貫き、ファンの不満や苦情にも直接応答するその姿勢は、ファンからの絶大な尊敬と愛情を勝ち得ることになりました。

Judge Robert J. Parins
7年間社長を務めた
Bob Harlan
大成功を収めることになる
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