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10年ぶりのプレーオフ

1981年シーズンのパッカーズは前年の不振をひきずるかのように前半2勝6敗と苦しみましたが、そこから若手選手たちが成長を見せ、後半は6勝2敗の躍進。プレーオフ進出を賭けた最終戦では9サックを喫してジェッツに敗れますが、翌年へと期待をつなぐシーズンとなりました。

24年間にわたって社長を務めたドミニク・オレニチャックが退き、後任にはロバート・パリンズ判事 Robert J. Parinsが就任。地区判事の職をいったん退いてパッカーズ社長をフルタイムで務めることになりました。

また、ミネソタ・ヴァイキングスは1982年に屋外のメトロポリタン・スタジアムから現在のメトロドームに移り、これによって事実上、「NFLで最も寒いフランチャイズ」はグリーンベイとなったわけです。

1982年開幕戦はハーフタイム0-23からの大逆転でラムズを下し、翌週も勝って2連勝。そのあと57日間にわたるストライキで7試合が中止となってしまいましたが、パッカーズは5勝3敗1分の成績で10年ぶりのプレーオフ進出を果たします。セントルイス・カーディナルスをホームに迎えたワイルドカード・プレーオフでは、QBリン・ディッキーが4TDパスを決める完璧な試合運びで41-16の圧勝。ロンバルディ時代以来15年ぶりのプレーオフ勝利に地元ファンは酔いしれ、フィールドに乱入した観衆がゴールポストを倒して喜びを爆発させました。

過去2年はWRジェームズ・ロフトンだけがプロボウルに出ていましたが、この年はロフトンの他にWRジョン・ジェファーソン、TEポール・コフマン、Cラリー・マッカレンと計4人が選ばれ、オフェンスの充実ぶりを示しています。

LBマイク・ダグラス
ディフェンスの中心を担った
WRジョン・ジェファーソン WRジェームズ・ロフトン
QBリン・ディッキー

バート・スターHC就任9年目、1983年シーズンのパッカーズは、勝ちと負けを交互に繰り返すもどかしい戦いぶりで8勝8敗に終わり、惜しくも連続プレーオフ出場はなりませんでした。オフェンスがNFL2位の大活躍でしたが、ディフェンスがNFL最下位で、なんと6403yds、52TD、439失点の体たらく。これでは勝率5割どまりも致し方ありません。

10月17日のレッドスキンズとのマンデーナイトゲームでは、両軍あわせて1025yds、計95得点という壮絶な点の取り合いのすえ、パッカーズが48-47で勝利。”Monday Night Shootout”としていまでも語り草となっているこのゲームが、大量得点・大量失点のシーズンを象徴しています。

ワイルドカードを賭けて臨んだシカゴでのシーズン最終戦は、タイム・マネジメントの失敗もあって、残り10秒で逆転FGを決められてベアーズに惜敗。その翌日、バート・スターHCはついに解任され、後任には元OTのフォレスト・グレッグが選ばれました。前任者と同じくロンバルディ時代の英雄であり、史上最高のオフェンシブタックルの1人と言われてすでに殿堂入りを果たしている名選手です。

グリーンベイにかつての栄光を取り戻すことができずチームを去ったバート・スター。古参記者たちによると、「経験不足ながら次第に優れたヘッドコーチへと成長したが、GMとしての人事の失敗が足を引っ張った。前任者の行ったQBジョン・ハドルのトレード失敗も長く尾を引いた」というのが大方の評価のようです。

34歳のベテランQBリン・ディッキーはこの年4458yds(今でも球団記録)、32TDを投げまくり(しかしインターセプトも29回と猛烈)、WRジェームズ・ロフトンが1300yds(もちろんプロボウル)、WRジョン・ジェファーソンが830yds、TEポール・コフマンが814yds(プロボウル)と、この時期の強力パスオフェンスが頂点に達した年でもあります。強肩QBディッキーは機動力が皆無、ハマればすごいが非常にモロい、そんなヴァーティカルなオフェンスを展開していました。

フォレスト・グレッグ時代

新ヘッドコーチのフォレスト・グレッグ Forrest Greggはかつてヴィンス・ロンバルディをして「私がコーチした中で最も優れた選手」と言わしめ、その皇帝ロンバルディでさえ彼をすこし恐れるところがあった、というエピソードの持ち主。バート・スター前HCと違ったのは、すでに他球団でヘッドコーチの経験があったこと。グレッグはブラウンズで3年間、ベンガルズで4年間ヘッドコーチを務め(合わせて50勝48敗)、1981年にはベンガルズでスーパーボウルに進出した実績がありました。(QBモンタナの49ersに敗れる)

誠実で高潔な紳士といった雰囲気のバート・スターに対し、グレッグHCは現役時代からの完全主義に昔気質の鬼コーチがミックスされたようなタイプ。今どきのわがままな選手たちを扱うにはこれぐらい厳格な方がいい、と球団首脳は判断したのかもしれません。グレッグHCは、ディフェンス強化はもちろんのこと、これまでのパス・ハッピーな傾向をすこし改め、よりバランスの取れたオフェンスを志向します。

こうして迎えた1984年シーズン、パッカーズはケガ人に苦しんで第2週から7連敗。逆にシーズン後半は7勝1敗と猛烈な追い込みを見せますが時すでに遅く、またも勝率5割でシーズンを終える結果になりました。宿敵ベアーズはマイク・ディトカHCのもと黄金期を迎え、スーパーボウル制覇(翌1985シーズン)を含めて5年連続地区優勝と、NFCセントラルを支配し続けることに。パッカーズとしては他で負けてもベアーズだけには勝ちたい、という意識が最も強かった時期でもあります。

LBジョン・アンダーソン
タックリングリーダーとして長く活躍 
TEポール・コフマン
強力パスオフェンスの一翼を担いプロボウル3回

1985年にランボーフィールドは72個のプライヴェート・ボックス席を増設し、収容人数は56,926人に。しかしスタンドを見下ろすボックス席はメインスタンド・バックスタンド部分だけで、まだフィールド全体を取り囲むには至っていません。

オフェンシブラインの大型化を図るグレッグHCは、1985年ドラフト1巡でLTケン・ルトガーズ、3巡LGリッチ・モランを指名。この同期コンビは、後のホルムグレンHC時代までオフェンシブラインの左サイドを担っていくことになります。

1985年シーズンもスロースタートの傾向は変わらず、3勝6敗のあと5勝2敗と追い込んでまたも8勝8敗。なんと3年連続の勝率5割です。この中でもっとも印象に残るゲームといえば、”The Snow Bowl”といわれる12月1日のバッカニアーズ戦でしょう。

球団史上最悪の悪天候に見舞われたこの日、チケット(もちろん売り切れですが)を持っていながら猛吹雪で試合に来られないファンが多かったため、入場者数はランボーフィールド史上最低のわずか19856人。スタジアムにたどり着けたのはスノーモビルで来たファンが多かったといいます。最大風速18mの吹雪が吹き荒れ、試合中だけで15cm以上の雪が降り積もるなか、パッカーズはパス280yds、ラン232yds、トータルオフェンス512ydsの猛攻。若きQBスティーヴ・ヤング率いるバッカニアーズをトータルわずか65ydsに抑え、21-0で圧勝することができました。(スタッツ

スノーボウル (QBヤングをサックしているところ)
スタンドがありえないほどガラガラ

フォレスト・グレッグHCは8勝8敗シーズンが3年続いたことでこのメンバーでの限界をさとり、チームの若返りを図ってTEポール・コフマン、LBマイク・ダグラスといった実績あるベテラン選手を次々と放出します。QBリン・ディッキーも契約でもめた末に引退し、後任にはプロ3年目、地元ウィスコンシン大出身のQBランディ・ライトが昇格。1986年シーズンは頼りない若手ばかりの上にケガ人も重なって4勝12敗、6年ぶりの負け越しシーズンとなりました。

パッカーズは長らくヘッドコーチに人事も任せてきましたが、このひどい不振を見た役員会は球団史上初めて専任のジェネラルマネージャー職を置くことを決断。選ばれたのは地元ウィスコンシン州ケノーシャ出身の元ラインバッカーであり、ファルコンズですでにGM経験のあるトム・ブラーツ Tom Braatzでした。コーチと人事の分離は他球団ではすでに主流になっており、パッカーズがずいぶん遅れていたのです。グレッグHCは能力に欠けたイエスマンばかりをフロントに集め、GMとしての人事の失敗(バート・スター時代と同じですが)、とくに世代交代の遅れが命取りとなりました。

あいつぐ不祥事

この時期のパッカーズはフィールド内外で荒っぽい行動が目立ち、バッドボーイズ的なチームカラーに染まっていました。フィールド内では、グレッグHCの4シーズンすべてが反則100回以上、うち3シーズンが反則数NFL1位(1987年は球団記録の135回)。1985年11月3日のベアーズ戦ではアンスポーツマンライク・コンダクトを5回も取られる始末です。

1986年にはDEチャールズ・マーティンがQBジム・マクマーン(CHI)をボディスラムしてシーズンエンドの大ケガを負わせ、一発退場&2試合出場停止。明らかに故意にケガをさせたこのシーンはスポーツニュースで繰り返し放送され、全米に恥をさらす結果となりました。

フィールド外では、エースWRジェームズ・ロフトンとSモシー・ケイドが1986年に性的暴行事件を起こし、Sケイドは禁固2年の実刑判決。かろうじて無罪となったWRロフトンも、つい2ヶ月前に似たような事件(不起訴)を起こしていたこともあって、レイダーズへトレード。後に殿堂入りする名レシーバーとしては不本意な形でグリーンベイを去ることになりました。また、QBマクマーンを負傷させたDEチャールズ・マーティンは酒浸りの暮らしのすえバーで乱闘騒ぎを起こし、1987年シーズン序盤に解雇されています。

LBティム・ハリス
198cmの長身でサックを量産
セカンダリーの中心 SSマーク・マーフィ
(現社長と同姓同名)

さて、1987年のNFLはまたもストライキに見舞われます。第2週が終わったところで選手会はストライキを決行しますが、それに備えていたオーナー側は代替選手(Replacement Player)をかき集めてシーズンを続行。世論の反発もあり、1ヶ月後に選手会側が折れてストライキ終了となりました。

グリーンベイでは代替選手のゲームを見るために(他球団よりずっと多い)35000人以上がスタジアムに足を運び、代替選手たちもそれに応えて2勝1敗と健闘しました。しかしストライキが終わってレギュラー選手たちが戻ると、3勝7敗の不振でけっきょく5勝9敗1分け。そんななか、QBドン・マコウスキーが10巡指名ルーキーながら5試合に先発して2勝2敗1分けと頑張り、2巡指名のILBジョニー・ホランドも1年目からスターターとして活躍しています。

「来季こそ勝てる手応えがある」と明言していたフォレスト・グレッグHCでしたが、シーズン終了から19日経った1月15日に突然辞任し、母校サザン・メソジスト大のヘッドコーチに。ロバート・パリンズ社長に辞任を告げただけで、部下のアシスタントコーチたちに話もせず、記者会見も開かず、ただ車に乗り込んでランボーフィールドの駐車場から出ていったのです。

トラブルばかりのプロ選手にうんざりし、もっと純粋な若者たちを相手にしたい、という気持ちになったのは無理もありませんし、この2年でわずか9勝の彼をパリンズ社長が無理に引き止めなかったのも事実。しかしこの冷淡きわまりない去り方は地元メディアやコミュニティに苦い後味を残し、グレッグ本人が次にグリーンベイのファンの前に姿を現したのは20年後の2008年のことでした。バート・スターが退任後もOBの代表格として球団やファンと親密な関係を保ったのとは対照的です。

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