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"The Ice Bowl"

1967年シーズン、NFLは2地区から4地区に分かれ、パッカーズはベアーズ、ライオンズ、ヴァイキングスとともにセントラル地区で戦うことになりました。長い間パッカーズの黄金期を支えてきた名選手たちも年とともに衰え、キャリアの終わりに近づいていました。RBホーナングは首のケガのために引退に追い込まれ、FBテイラーも故郷に近いセインツに移籍。QBスターも9TD、17INTとスランプに苦しんだシーズンでした。そんな中でルーキーのWR/KRトラヴィス・ウィリアムズは、平均41.1yds、4TDという素晴らしいキックオフリターンを見せてチームを活気づけ、9勝4敗1分けの地区優勝に貢献しました。ロサンゼルス・ラムズをミルウォーキーに迎えてのウェスタン・カンファレンス決勝は、28-7でパッカーズが完勝を収めました。

強いプレッシャーを自らにかけ、ハードワークを続けてきたロンバルディは、心身ともに疲れ果て、体のあちこちに変調をきたしていました。前年のカウボーイズとのNFL決勝の直前には、ふと漏らした「最後になるかもしれない」という言葉が外部に漏れてスクープとなり、慌てて引退説を打ち消すという一幕もありました。その彼を突き動かしたのは、プレーオフ制となった1933年以来だれも成し遂げたことのない「NFL三連覇」という大きな目標。彼は傷つき疲れたチームを叱咤して優勝を目指しますが、レギュラーシーズン最後に連敗を喫するなど、かつての圧倒的な力からは程遠いチーム状態でした。

そうして迎えた1967年12月31日、この年もNFL決勝の相手はダラス・カウボーイズ。しかし今度はランボーフィールドでの対戦です。気温は華氏-13度(-25℃)、そのうえ強い北風が吹きつけ、体感温度は華氏-41度。もちろん今に至るまでNFL史上最低の気温です。延期を願う選手の祈りも空しく、試合は予定通り決行されることになりました。ロンバルディの発案でランボーフィールドの地下にはヒーターが埋設されていましたが、この日は故障して動かず、フィールドは固く固く凍りついてしまっています。地元の人々でさえ初めてというほどの寒さですから、テキサスからやってきたカウボーイズにとってはなおさらのこと。

前半、QBバート・スターはWRボイド・ダウラーへのTDパスを2本決め、パッカーズは14点のリードを奪います。カウボーイズのエースWRは東京五輪の金メダリスト、ボブ・ヘイズでしたが、彼は寒さで文字通り縮み上がり、「世界一速い男は世界一寒そうな男に見えた」と言われたほど、戦力になりませんでした。しかしカウボーイズは、第2QにQBスターをサックしてファンブルリカバーTDを挙げ、息を吹き返します。さらにパッカーズのパントリターナーのFSウィリー・ウッドの珍しいファンブルを活かして3点を加え、14-10と追い上げてハーフタイムへ。

後半に入ってもダラスの”Doomsday Defence”はゲームを支配しますが、パッカーズはなんとか失点を逃れ、4点リードのまま第4Qへ。しかしそこでついにダラスのTDパスが決まり逆転。この意表を突くハーフバック・オプション・パスを投げたのは後の名コーチ、ダン・リーヴスでした。そして刻々と時間は過ぎ、残り4分50秒、自陣32ヤードからパッカーズ最後の攻撃となります。QBスターはRBドニー・アンダーソン、WRダウラー、RBマーセインにショートパスを立て続けに通し、敵陣深くへとボールを進めていきます。そして敵陣1ヤードでの1stダウン、RBアンダーソンのランは止められ、2ndダウンもアンダーソンが足を滑らせてノーゲイン。残り20秒、最後のタイムアウト。

サイドラインに戻ったQBスターは、相手の長身DTの足元を狙ってRGジェリー・クレイマーが穴を開け、RBマーセインが縦に突っ込むシンプルな"wedge"を進言し(同点FGなど2人の眼中にはありませんでした)、ロンバルディは「それで行け!」と送り出します。ハドルでもその通りコールしたQBスターですが、凍りついた地面で滑るリスクなども考え、誰にも言わずQBスニークに変更します。パッカーズのプレーブックにはなく、練習したことさえないプレー、まして相手に予想できるはずもありません。両軍ラインマンがコンクリートのように固く凍りついた地面をガツガツと掘って足場を整え、そして運命の瞬間が訪れます。フォルススタート気味に飛び込んだRGクレイマーに続いてQBスターがボールを抱えて雪崩れ込み、自分がヒーローになるものと思っていたRBマーセインが驚いて両手を挙げたところが、左下の有名なシーンです。21-17

劣悪な条件下で、傷を負い、極限のプレッシャーに耐えながら、強い決意を持って共通の大きな目標を目指し、一人一人が自分の持ち場でベストを尽くし、ひとつもミスをせず、ついに目的地にたどり着いたこのドライブは、まさにロンバルディのフットボールの集大成と言えるものでした。

凍傷と戦いながら(じっさい十数人が病院で手当てを受けました)固唾を飲んで見守っていたファンは歓喜に沸き、フィールドに雪崩れ込みました。まさにフランチャイズ史上もっとも幸福な瞬間と言っていいでしょう。ロッカールームに引き上げた選手たちは、それぞれ取材を受けながら涙を流し、嗚咽をこらえ、喜びを分かち合いました。それほどこの勝利はエモーショナルなものであり、長く厳しいシーズンの果てにようやく成し遂げた三連覇だったのです。

#15 バート・スターがQBスニークで
エンドゾーンに飛び込む
歓喜に沸くランボーフィールド

第2回スーパーボウル

アイスボウルの死闘から2週間後、第2回スーパーボウルが行われたのはマイアミのオレンジボウルです。選手もコーチもあの感動的な勝利で力尽きてしまい、さすがに余力はあまり残っていませんでした。そのような状況で選手たちをなんとか奮い立たせたのは、「たぶんこれがロンバルディの最後の試合になる」という気持ちでした。公には引退の噂を否定続けてきましたが、ロンバルディは「今季が最後」と心に決め、身近な人々にはその考えを伝えていたのです。選手たちの気が散らぬよう引退説を否定したロンバルディでしたが、逆にその噂がこの時のパッカーズを助けたと言えるかもしれません。

1968年1月14日、第2回スーパーボウルは前年とよく似た展開となりました。AFLチャンピオンのオークランド・レイダーズに対し、序盤こそややもたつきますが、WRダウラーへの62ydsTDパスと3本のFGで、16-7とリードしてハーフタイムへ。後半に入るとさらにパッカーズが圧倒し、CBハーブ・アデリーのインターセプトリターンTDなどでさらに点差を広げ、33-14で試合終了。「チャンピオンを決める試合というより戴冠式だった」という評があるように、NFL代表として絶対負けてはならない相手にちゃんと勝ったというのが、この2つのスーパーボウルだったと言えるでしょう。

ラインマンたちに担がれてオレンジボウルを退場したヴィンス・ロンバルディは、2週間後の2月1日に辞任を発表。ディフェンシブ・アシスタントだったフィル・ベングストンにヘッドコーチの座を譲り、自らはゼネラルマネージャーとしてチームを統括することになりました。(退任スピーチ音声

これが最後の"Lombardi Sweep"となった OTグレッグとOGクレイマー(右)に肩車され
フィールドを去るヴィンス・ロンバルディHC

ロンバルディとの別れ

1950年代から60年代にかけて、テレビの普及とともにプロフットボールは大きな人気を博し、大都市のチームを相手に素晴らしい力を発揮したグリーンベイ・パッカーズはNFL人気の中心的存在となりました。なかでも、弱小チームを無敵のチャンピオンに育て上げたヴィンス・ロンバルディは、スポーツ界に留まらず全米の尊敬の的となり、まさにカリスマ的存在となっていきます。彼の成功哲学は実業界や政界からも注目され、講演依頼は数え切れないほど。

ときは1968年。キング牧師やロバート・ケネディの暗殺、ベトナム戦争の泥沼化など、アメリカ現代史で最も物情騒然とした時期です。そんななか、規律、努力、自己犠牲の精神、克己心、愛国心といった彼の信条は、どちらかというと保守派から大きな注目を集めます。共和党のニクソン大統領候補は、ロンバルディを副大統領候補にと考えますが、調査してみると本人は故ケネディ大統領の親友でロバート・ケネディ支持派と分かり断念。逆に民主党から副大統領候補に指名されるという噂はギリギリまで絶えませんでした。

そんな1968年シーズン、GMに退いたロンバルディは非常に退屈な毎日を過ごします。ヘッドコーチ職を譲った以上、練習でも口を出すことはできず、それがあまりに苦しいために、練習を見ることはやめてしまいました。6勝7敗1分けと苦しむパッカーズを上から眺める彼は、不甲斐ないプレーぶりに歯ぎしりしながらも、改めて自分の能力を示す結果となったことを、満更でもなく思っていたようだと証言する人もいます。自分はやはり選手を相手にフィールドで仕事をするしかないと思い知った彼は、ワシントンからの熱心な誘いに応じることをひそかに決意します。

ロンバルディが辞任しベングストンに
ヘッドコーチを譲ると発表した記者会見
 HC職を退いてリラックスするはずが
かえってイライラが募る

プロフットボールがビッグビジネスに成長したこの時代、金つまりオーナー権がなければ本当の力は持ち得ないとロンバルディは痛感していました。パッカーズ株式の何割かを手に入れようと求めたこともありましたが、チームのポリシーにより大株主は認められません。レッドスキンズからの誘いを受けた理由は、チームの株の5%を提供されたことも大きかったようです。また、時おり鬱病に苦しむ妻マリーのために、故郷に近い東海岸に移りたい、という気持ちもありました。1969年1月、彼をヘッドコーチ兼副社長とすることがレッドスキンズから発表されました。

これまではパッカーズを去ろうとする選手やコーチを不誠実だと罵ってきたロンバルディ本人が、パッカーズとの契約を一方的に破棄しようとしたことに、理事会が、いやウィスコンシン全体が憤激します。しかし、裏切られたと感じながらも、けっきょくは彼の移籍を許すほかはありません。レッドスキンズに何の代償も求めなかったのは、ロンバルディのこれまでの功績に感謝したからだ、とオレニチャック社長は語っています。「15人の選手と引き換えにロンバルディを、と言われても私は拒否しただろう。100万ドルと引き換えに、と言われても拒否しただろう。彼が出て行くにあたって、金銭や、何人かの選手を要求することで、彼の価値をおとしめたくはない」

レッドスキンズに移った彼は、グリーンベイ時代と同じように徹底したフィルム・スタディでチームの選手を分析し、鍛えるに足る選手を見出していきます。レッドスキンズの選手たちにとっては非常に厳しい練習でしたが、パッカーズ時代を知るアシスタントは、ロンバルディの迫力がわずかにトーンダウンしていることに気付いたといいます。それが彼の円熟の証だったのか、体力・気力の衰えの表れだったのか。そうして迎えた1969年シーズン、ロンバルディは、優れたパサーであるベテランQBソニー・ジャーゲンセンの能力を最大限に活かし、14年ぶりの勝ち越しシーズンをワシントンにもたらします。7勝5敗2分けという数字は、まさにグリーンベイでの1年目と同じ勝率。首都の人々がパッカーズと同じ奇跡を期待したのも無理はありません。

しかし、2年目のシーズンは彼には残されていませんでした。

すでに移籍直後から、彼の体にはなんらかの兆候があったようです。1970年6月に入院した彼は大腸ガンの手術を受け、いったんは退院しますが、体調は悪化する一方で、7月末に再入院。すでにガンはあちこちに転移していて手の施しようがありませんでした。多くの友人や教え子たちが、死の床にある痩せ衰えたロンバルディを訪れ、最後の別れを惜しみます。ニクソン大統領からは「今は国じゅうが君を応援している」との見舞いの電話があり、上下両院がそれぞれ彼のために祈ります。最後の願いも空しく、1970年9月3日、偉大な名コーチ、ヴィンス・ロンバルディは天に召されました。

葬儀からわずか3日後、NFLコミッショナーのピート・ロゼールは、スーパーボウルの優勝トロフィーを "Vince Lombardi Trophy" とすることを発表しました。

亡き名将に黙祷を捧げるグリーンベイ・パッカーズ
左から2番目がLBレイ・ニチキ
3番目がフィル・ベングストンHC
ニューヨーク聖パトリック大聖堂での盛大な葬儀には3500人以上が参列した

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