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ドン・ハトソン時代

前年の大きな危機を乗り越えたパッカーズは、1935年、リーグの歴史を変えるルーキーを迎えることになります。アラバマ大の痩せたレシーバー、ドン・ハトソンです。彼はパッカーズとブルックリン・ドジャースの両方の契約書にサインしてしまい紛争となりますが、「グリーンベイの方が先だった」というコミッショナー裁定のおかげで、無事にパッカーズの一員になったのです。

今と比べてパス攻撃の頻度がはるかに少なかったこの時代、エンドの役割と言えばまずブロック。たまにパスプレーを行う時も、ただ真っ直ぐにダウンフィールドに走り、振り返ってキャッチするだけでした。それを劇的に変えたのが、このドン・ハトソンだったのです。現代フットボールで使われているさまざまなパスパターンや、レシーバーの動きの多くは、彼が編み出したものだと言われています。しかも、ボールが近くに来さえすれば、ことごとくキャッチしてしまう能力がありました。ディフェンス側は彼を封じるために、ダブルカバレッジやトリプルカバレッジまで駆使し、新たな戦術も考案されていくことになります。

1年目から素晴らしい活躍を見せたハトソンは、前述のQBアーニー・ハーバーやHBセシル・イズベルとのコンビで、タッチダウンを量産していきます。彼のおかげで観客動員数も大幅に増え、資金難にあったこのフランチャイズの財政再建に大きく貢献したのです。彼の加入で再び競争力を取り戻したチームは、翌1936年に5年ぶり4回目のリーグ制覇を果たし、1939年にも優勝を重ねることができました。

Don Hutson

1945年に引退するまで、現役11年間で欠場はわずか3試合。パスキャッチ488回、7991yds、99TD。シーズン最多キャッチが8回、ヤーデージでは7回、最多得点が5回。彼が引退した当時、通算パスキャッチ2位の記録はわずか190回だといいますから、彼がいかに飛び抜けた存在だったかがわかろうというものです。彼の作った記録の多くは、このあと半世紀にもわたってNFL記録として残ることになりました。また、ハトソンはディフェンスでもその才能を発揮し、セーフティとして通算30個のインターセプトを記録しています。

1994年に完成したパッカーズの室内練習場は、彼にちなんで、Don Hutson Centerと名づけられました。

1999年、Green Bay Press-Gazette紙のThe Player of the Centuryに選ばれたのは、QBバート・スターでもQBブレット・ファーヴでもなく、このドン・ハトソンでした。ところで、のちの名WRジェームズ・ロフトンがパッカーズの殿堂入りすることになった時、QBブレット・ファーヴとロフトンの間で、ロフトンとスターリング・シャープのどちらが球団史上最高のWRか、という話になったのだそうです。「シャープは自分がチーム史上最高だと思ってる」と言うファーヴに、ロフトンはこう言って聞かせたのだそうです。「教えといてやるが、ハトソンが1位で、ヤツは3位だ。僕らは今でも、彼の考案したパスパターンを使っているのだから」

40年代唯一の優勝

1941年シーズンを10勝1敗の同率首位で終えたパッカーズとベアーズはNFL決勝を賭けてプレーオフを行い、パッカーズは14-33で敗れました。真珠湾攻撃のわずか1週間後のことです。

1940年から4年続けて、パッカーズはシカゴ・ベアーズに一歩及ばず地区優勝を逃してきました。しかしようやく1944年にベアーズを上回って西地区を制し、NFL決勝ではニューヨークでジャイアンツを14-7で倒し、六度目の優勝を果たします。これはパッカーズにとって40年代唯一のNFL制覇であるとともに、カーリー・ランボーHCにとって最後の優勝でもありました。

列車で凱旋するパッカーズの面々をグリーンベイの人々が集まって出迎えることは、もうすでに決まった儀式のようになっていました。下の写真はこの1944年シーズンの優勝後、ニューヨークから帰ってきたパッカーズを出迎えるために駅に詰め掛けたファンの様子。右手前にはなぜか消防車も写っています。

低迷期へ

1944年シーズンに優勝を果たしたパッカーズですが、偉大なドン・ハトソンは1945年に引退してしまい、チーム成績は緩やかに下降線をたどってゆきます。1947年まではなんとか勝ち越しを続けましたが、1948年には3勝9敗となり、ついにフランチャイズ史上二度目の負け越し。翌1949年には2勝10敗とさらに低迷し、カーリー・ランボーの時代もついに終わりを迎えることになります。

この時期、低迷するチームを孤軍奮闘で支えたのが名RBトニー・カナデオでした。若白髪のためにゴンザガ大時代には”Gray Ghost of Gonzaga”と呼ばれた彼は、第二次大戦への従軍後に才能が花開き、タフなランニングバックとして四度のオールプロに選ばれています。チーム史上、永久欠番となっているのは上記の#14ドン・ハトソン、そして#3カナデオを含めて5人だけ。また彼は引退後もパッカーズの理事や副社長として長いあいだ貢献を続け、パッカーズOBの顔として地元ファンに親しまれました。1959年にヴィンス・ロンバルディをHCに採用した決断にも一役買ったというエピソードも残っています。(カナデオについては2003年12月の死亡記事を参考のこと)

#14ドン・ハトソンの前でブロックするのは#3トニー・カナデオ
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