2007年2月28日
Gravity
71年前、二・二六事件で戒厳令が敷かれた東京で、21歳の祖母は真っ白な雪を踏んで四谷の産院まで歩き、そこで私の母を産んだ。2年も経たぬうちに戦争未亡人になった。
シングルマザーとして必死に頑張って洋裁の先生になったころ、祖母が教え子の家に招ばれたことがあった。その人の父親は海軍のエラい人(たしか将官)なのだが、酒で機嫌がよくなったのか、「勝負事は、かかっているものが大きいほど面白いものだ。戦争は国を賭けてやるのだから、面白くないはずがない」といった趣旨のことを祖母たちに言ったらしい。軍国主義が大嫌いだったオテンバ娘は心の底から憤り、3年前に亡くなるまで、孫の私にその思い出話をしては腹を立てていた。
母の誕生日にこのようなことを思い出したのだが、戦争や軍人の話をしようというのではなく、「かかっているものの大きさ」の方の話だ。
たとえばオリンピック、またワールドカップでもいい。いっときは大変な盛り上がりを見せても、大会が終わってしばらくすればその競技への注目度は元に戻ってしまう。魅力に目覚めてファンになる人たちがある程度は出てくるにせよ、全体としてはまあ元通りだろう。もともと熱心なファンだった人たちは、「ワールドカップや日本代表の試合ばかりもてはやして、なぜもっとJリーグの試合を観ないのか、放送しないのか」と憤り、熱しやすく冷めやすい大多数のファンを軽蔑することになる。
しかし考えてみれば、同じ熱気を保てないのは当たり前の話だろう。いくら競技レベルが高かろうと、勝っても負けても大差ないようなゲームなら、両チームの熱心なファンしか強い興味を持てるはずがない。NFLで強豪どうしの同カードだとしても、プレーオフはかかっているものの大きさが違う。ケガ人は足を引きずってでも出場してくるし、極度の緊張感の中で、普段は隠れていた怒りや憎しみといった感情がむき出しになることもある。
古代ローマの人々が最も好んだ娯楽は剣闘士競技だが、グラディエーターたちの闘いぶりが素晴らしいだけでは、あれほどの人気を得ることはなかっただろう。必ずではないにせよ、敗れた方はとどめを刺され、その場で命を落とす。つい先ほどまで力に満ち躍動していた完璧な肉体が、血潮にまみれ、やがて動かなくなる。そこに残酷な楽しみがある。
現代のオリンピックやサッカーのワールドカップはと言えば、4年という歳月の重さが、見る側にとって特別な興趣になっている。アスリートの全盛期は短く、次のチャンスが来るかどうかわからない。長い間積み上げてきたものが一瞬の勝負に凝縮される。だからこそ勝者の喜びは大きいし、敗者の失望はより深い。力を出し切った充実感や、祭りが終わった開放感や寂しさにも格別なものがある。国民的関心事となるだけに、見る側でもお年寄りが心臓発作を起こしたり、殺人事件まで起きたりする。
アメリカのプロスポーツは、球団数の多さと、サラリーキャップによる均衡策がひとつの特徴となっている。いま強豪と言われていても、来年はどうなるかわからない。次のチャンスは何年後、いや何十年後になるかわからない。だからこそ今年勝ちたい、何とかしてモノにしたいという球団・選手・地元民たちの気持ちの強さが、あのプレーオフの熱気を支えている。
そういった、いわばアルコール度数の高い楽しみに酔ったあとで、同じ競技だから、競技レベルが高いのだから同じように楽しめと言われても、それはどだい無理というものだ。たしかに、純粋に競技そのものを楽しめる人たちは趣味がいい。しかし必ず少数派であり、それが変わることはない。そのようなことが理解できない人は、けっきょく人の世のことがわからぬのではないかという気がする。
投稿者 nagoyapackerbacker : 00:00

